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Author:ノリコ
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ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

目標を決めて、目標を達成することだけが目的だと思ってしまうと、その目的に向かって進歩向上していく過程を楽しむ余裕ができません。

確かに目標はあったほうがいいのですが、「こうしなければならない」という世界になってそれを生きていくことになると、目標に到達した頃にはもう人生の残り時間があまり残されておらず、楽しむ時間もあまりないということになってしまいます。

実際には、若い頃にはその時にしか体験できない苦しみ・楽しみというものがあるわけです。そして、歳を取ったら、今度はそれはそれでその年齢に相応しい楽しみ方、その年齢でないと分からない喜びというものがあるわけです。

ですので、目標にしばられてまだ目標に達していないからダメなんだ、と考えるよりは、一生懸命精進努力して、一日一日が目標に至る道のりであって、そういう一日一日を刻々と楽しんで、できていないところは明日はできるような自分に成長していこうと、そう自分を励まして、毎日を喜びつつ過ごしていく、こうした在り方のほうが良いようです。そしてこの今日一日、今この時を楽しんで過ごそうという姿勢こそ、三昧の境地により近いものかもしれません。

目前の今この時今この時を、充実したものにし、喜びと生きがいを見出していく、こういう姿勢でいると、三昧の境地に近づくことができるようです。

今この時、今この時というのを楽しまないで、結果のみに心がしばられてしまうと、思った通りの結果にならなかった時、つまり自分の期待が裏切られた時にがっかりしてしまって、それで結局悲しみと恨みが残ってしまって自分を傷つけることになってしまうのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。」(子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者、)という言葉がありまして、正しくは、

「子の曰わく、
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
というふうに読むということなんですね。

その意味はというと、
「先生がおっしゃった。
「道を志すことにおいて、ただ知っているというだけの人は、
それを好きな人には及ばない。
それを好きな人も、それを楽しむ人には及ばない」」
となる、ということなのです。

深見東州先生から以前聞いた時におっしゃったのは、「目標を立ててもその取り組みが義務感でやることに終始するのなら、おそらく長続きしないでしょう。長続きさせて、同時に結果も出していく、ということなら絶対に楽しむことが大切です」ということでした。そして、義務感とか面倒くさいとかしんどいとか疲れたといったマイナスの感情など完全に忘れきって、自分が精進努力していることに没入して、自分が何をやっているのかわからないくらいに没入して、それでなおかつ楽しい、楽しい、といった感覚にある時、これがどうやら三昧(ざんまい)の境地にあるということらしいですね。

この三昧の境地にすぐに没入できる、というふうになってくると、普通に手間暇や苦労が必要となるようなことでも人間がやってできることであれば、どんどん取り組んでいくことが可能になるようです。深見東州先生は、自分が若い時にした新聞配達をやっていた時に、この三昧の境地を実感したことがある、とおっしゃっていましたが、物事を成就する、成し遂げていくという時に、この三昧の境地というものと没入感というもの、こうした要素がとても大切になってくるように思います。

義務感で物事に取り組んでも、なかなかこの三昧の境地に至るのは難しいのではないでしょうか。しかし、取り組む対象が自分の好きな事柄であれば、より没入しやすいのではないでしょうか。ですから、もう何事か成し遂げようというのであれば、それを無理矢理好きになるしかないよね、という結論なのです。

逆に、どうしても好きになれない、というのであれば胃潰瘍になる前に諦めたほうがいいかもしれませんね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 守護霊

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

毎日の生活の中で、内修と外慈、すなわち道を得て物事の真実を把握することと、人様によろこんでいただいて善徳を積み功を立てる、この二つをとにかく実践して成就していく、これが確実にできるようになってくると、毎日の御神業が充実したものになるようです。

守護霊さんに祈るの時には、まずひとつ、毎日必ず「今日も功(いさおし)を積むことができますように」と祈ります。少しでも人々のために役に立つことができて、何か人救いができますようにと祈る。そして次にもうひとつ、「今日もわからなかったところがわかるようになって進歩向上発展のある一日となりますように」と祈ります。具体的に「□□と○○についてわからないところがありますので、どうぞ教えていただけますように」と祈るのが良いかと思います。このように祈ると、必ず神様から(守護霊さんたちを通じて)お返事があるはずなのです。

これらを別の言い方で表すならば、

「願わくば上乗に至らしめたまえ」

「願わくば真諦を得さしめたまえ」

「願わくば功侯を積ましめたまえ」

「願わくば衆生を済度ならしめたまえ」

という言い方になるということです。

毎朝こうした言葉で祈りを捧げて、それから一日の生活・仕事にとりかかるのですね。

そして、深見東州先生がおっしゃるには、とにかく毎日、毎朝、神様に向かって疑問点を投げかけることが大切です、ということです。神様に質問を投げかければ投げかけるほど、悟る数も増えていくのだそうです。神様と交流して、どんどん疑問点を明確にして、それを質問していく、質問を投げかけていく、こうすることで、自分が今知らねばならないこと、悟らねばならないこと、気づかねばならないこと、こうしたことがはっきりして、どんどん悟ることができて、どんどん進歩していくことができる、こういうふうになっているのですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 守護霊

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

深見東州先生がおっしゃるには、守護霊に祈る時には、はっきりと明確に具体的に言うことが大切になってくるということですね。そして自分と縁のある方たちだという場合が多いのですから、とにかくモロに希望・願望を言い募っても良いのではないかと思います。その願いの内容が利己的なものでない、自分中心のものでない、誰か他人を犠牲にするものでない、こうした条件に合っているなら、必ず願いを聞き届けてくれて、何か返ってくるものがあるのではないかと思います。

ですから守護霊さんたちに祈る時には本当に具体的に、はっきりと言葉に出して、セリフに出して、ぶつぶつと言っていくのが良いようです。

「私を守って下さっている多くの守護霊様。本日も神様の命を受けて、私をご守護いただき誠に有難うございます。今、私はここ、□□に来ておりますが、体調が悪く、気分も悪く、食欲も無く、気持ちも盛り上がらず、とてもつらい状態になっています。つきましては、この後打ち合わせをしなければならないので、まずは体力が回復して、無事仕事を最後までやり抜くことができますよう、どうかお守り下さい。どうかお願いいたします。そして、この後の打ち合わせはとても大切なものなので、この打ち合わせで必要なことはすべて話し合うことができ、重要なことをひとつも見落とすことなく確認して押さえることができ、少しでも我が社にとって有利な条件で契約を締結することができますように。けれども先方にも先方の事情と都合と条件と希望があるでしょうから、先方が、一方的に自分達が損をしたとか、だまされたといった悪い印象を持つこと無く、先方も先方で納得し、満足して、今後ともずっとつきあっていきたいという気持ちが衰えることなく、私どもと一緒にやっていってくれることができますように、お互いに好印象を抱きつつ会合を終えることができますように」

といったようなことを守護霊さんたちに向けて、事細かに、丁寧ではあっても親しみを込めて、言霊でどんどん出していくのが良いみたいですね。気持ちが切り替わって、体が切り替わって、元気になるまでくり返して祈っていくと、本当に守護霊がかかって物事がうまく運んでいくのだということみたいですね。

(つづく)

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

深見東州先生は、「人が生まれてきた目的は、一見いろいろとあるように見えても実は全員に共通している目的がある、それは御魂を向上させること、御魂の修業のために生まれてきているのです」、このようにおっしゃっています。

それでは、この観点から毎日をどのように送るのが良いのでしょうか。また、毎日どのように守護霊に祈るのが良いのでしょうか。

究極のところはどうなるかというと、「自分がその時何をしているにせよ、一日一日の一瞬一瞬が、自分の魂の向上に結びつく一瞬一瞬になっているのが理想」だということのようです。

そして、「御魂を向上させる・御魂の修業」ということをもっと具体的に言うなら、二種類の方法がある、ということになります。

それはすなわち、「どこまでも善なるものを信じながら、真理を追究して向上していく、つまり学び続けていく、道を極めていく」という陰の面、すなわち「内修」と、もうひとつ、「善徳を積んで功(いさおし)を立てる」という陽の面、すなわち「外慈」と、この二つです。御魂を向上させていくのには、この二種類しかありません。信念を持ってどこまでも真理を究めて向上していくというのと、善徳を積んで功を立てることによって向上していくというのの二つです。人間の御魂が向上するという時には、この二つの方法、陰と陽、道と慈、こうした二つになるわけです。

真理を究めていくと物事が分かってきて、やはり世の中の役に立つことがしたい、人々の幸せの役に立つことがしたい、このように考えが至って善徳を尽くしたいと考えるようになる。道が極まって慈に至ります。また、善徳を施そうとしていろいろと問題に突き当たった時に、本当の布施行ができるようになるには、もっと英知が必要だ、もっと真理に通じていないといけない、このように反省し、もっと勉強しないといけないと考えるようになります。慈が極まると道を志すようになります。したがって道と慈、つまり内修と外慈は不即不離の関係にあり、どちらが欠けても残った他方も成り立たなくなるわけです。

そうすると、守護霊さんに実際にどう祈るのが良いのでしょうか。それは、まずひとつ、毎日必ず「今日も功(いさおし)を積むことができますように」と祈ります。少しでも人々のために役に立つことができて、何か人救いができますようにと祈るわけですね。そして次にもうひとつ、「今日もわからなかったところがわかるようになって進歩向上発展のある一日となりますように」と祈るわけです。具体的に「□□と○○についてわからないところがありますので、どうぞ教えていただけますように」と祈るのでも良いかと思います。このように祈ると、必ず神様から(守護霊さんたちを通じて)お返事があるということです。

こうした陰陽両面の祈りを毎日繰り返し祈って積み上げていく、こうするとどんどん神様と交流できて、毎日の生活が実り豊かなものとなり、善徳の積み方も進歩早さも人の2倍、3倍の早さで進んでいけるようになるということです。すばらしいですね。

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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前世の不徳を今生で補強するとはどういうことなのか、この点について考えてみたいと思います。

人徳・地徳・天徳のうち、人徳については、内修と言い換えても大きな間違いではないでしょう。すなわち、世の中の物事の受け止め方、物の見方、物の学び方、考えの進め方、こうしたことを学び体得して、世の中の真実について学んで自分を向上させていく、本当の教養を身につけていく、正しい信仰心について学んでいく、こうしたことが人徳となるでしょう。自分が明るい人物となるよう努め、より良き自分の在り方をめざして毎日過ごしていくということになるでしょう。これは一朝一夕で積み上げられるものではありませんね。一生をかけて、継続的に積み上げていくものでありましょう。

また、地徳とは前世に積んだ徳分ですから、今となってはこの地徳を増やそうとしてもどうしようもありません。しかし、例えば、今すぐにでも世の中の役に立つこと、人の喜びにつながることをしようと発願して体施を始めるなら、すぐに徳積みを始めることができるのも事実です。そして、この徳積みを今生死ぬまで続けてやめることがなければ、来世はいっそう充実した人生となることでしょう。今おこなったことは、来世の地徳となるわけです。

ところで、これらの人徳と地徳を今世の自分の人生において活用することを可能にするのが信仰心であり、その信仰心によってもたらされる天徳なのです。神仏に帰依して正しい信仰を生涯貫いた上で、徳積みを実践し、お稽古事や勉強も同時に積み重ねていく、こうした生き方をすることで、人徳・地徳・天徳の三つが融合し、自分自身と自分の周囲の人達のどちらをも幸せにすることができる最善の生き方をすることが可能となるのです。

なぜなら、信仰心の篤い人物が人知れず神仏に願掛けをして、日頃から人徳を磨きまた地徳を積もうという生き方をすれば、自ずから神仏がその生き様をご照覧になって、本人の想いと行いに応えて神徳・仏徳をあらわして下さるはずだからです。具体的にその恵みは何かと言えば、それはより良き人、より良き事柄、より良き物との出会いということになります。なかなか具体的にならないというのであれば、より良き人と出会う準備をしている、より良き事柄と出会う準備をしている、より良き物と出会う準備をしている、このように考えればいいのではないでしょうか。

今世での幸せは、やはり正しい神仏に帰依していること、そして自分が一体何をもって自分の幸せと考えるのかということ、こうした点にかかっていると言えるでしょう。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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「才能や運気を開花させるには、努力だけではだめだ」ということを受けて、それでは「才能が社会的に開花するために必要なものは何か?」と考えた時に、「それは徳分である」ということがわかりました。そして、その徳分には三種類のものがある。その三つとは、人徳、地徳、天徳ですね。

人徳とは、「自分自身を修養して高めている人格面」のこと。「その人物の人間的色あいや魅力」をさしています。

地徳とは、「前世において自分がどれほど徳を積んできたか」という過去の徳分のこと。この地徳の有る無しが、社会で才能が認められて開花・結実するかどうかに関わってきます。また、俗に言う「ツイている人とツイていない人との違い」となります。

天徳とは、神の道に生きようとする人、根源的な信仰力を持っている人に備わるものです。神仏に深く帰依しているとか、天の正しき道を貫いて生きてきたとか、あるいは神様仏様に対して功徳を積み、信仰力を磨き錬磨し、一人でも人を救済してきた人は、天の徳が授けられているのです。また、天徳を授かっている人は、悟りや叡知、パッとひらめく発想、才能、霊的な素質を持っています。

それでは、この三つの徳が均等に備わっていないとどうなるのか、その点を引き続き「絶対運」から見てみたいと思います。

引用ここから---------

 たとえば、天の徳があっても地の徳がないとすれば、あなたの望みは世の中で結実・成就しない。「発想・ヒラメキは抜群だけど、どうも現実に役立たないんだよなあ」と言われるのがオチである。

 地の徳があって天の徳がなかったらどうなるか。

「あいつ、何をやっても結構うまくいくけど、スゴイ発想で時代をリードするといった、叡知の香りみたいなものとはまったく無縁なんだよな。才能があっても、あれが限度だぜ」

 人徳がないと、

「たしかに彼は成功しているかもしれないけど、あんなに狡猾で悪辣だといい死に方しないね。見ていてごらん。そのうちポックリ……」

 こんな声が聞こえてきそうだ。

~(中略)~ 徳には三つあり、それぞれの働きがおわかりいただけただろう。人・地・天の三つの徳が調和し揃って、初めてより完璧になるのである。

~(中略)~ 自分にはどの徳が足りないか。まずその弱いところを発見して、そこを補強することである。

 というと、前世の不徳を今生で補強することができるのかと疑問が出よう。勿論できるのである。

引用ここまで----------

ということで、三つのうちのいずれかの徳分が足りないなら、それを補強すれば良いのだ、という話に当然なるわけですね。それではどのようにして自分に足りない徳を補強するのでしょうか。

(つづく)

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「才能や運気を開花させるには、努力だけではだめだ」ということなのです。そして「才能が社会的に開花するために必要なのは徳分である」ということなんですね。そこで、その徳分について記されている部分を「絶対運」から見ていきたいと思います。

引用ここから---------

 いちがいに徳というが、これは三つに分けられる。

 まず、人徳がある。

「いやあ、まことに申しわけありません、私の不徳のいたすところでございます」

 と深く頭を下げる、あるいは下げるふりをする政治家やビジネスマンの姿をよく見る。不徳とは人徳に欠けることをいうが、一方、こういう表現もよく聞く。

「Xさんは、たしかに人徳はあるんですが、なかなか世の中では報われませんね。能力もけっしてライバルのYさんに劣らないんですが、どうしてもYさんの方が目立ちます」

 これも日常でよく耳にする会話である。

 人徳があって才能があっても、ライバルのYさんにつねに負けているXさん--、そんな人はわれわれの身近にもいるはずである。

 この人徳というものは、自分自身を修養して高めている人格面をいう。その人物の人間的色あい、魅力をさしているのだ。

 しかし、人徳なんてものは、宗教的あるいは修身教科書的な評価でしかなく、実生活に何の役にも立たないと言う人もいる。Xさんのように、人徳はあっても恵まれない人がいるのが、なによりの証拠というわけだ。

 しかし、真実はそうではない。

 人徳があっても恵まれなかったりツキがないのは、もうひとつの徳が足りないからである。

 それが第二の徳、地徳(ちとく)である。

 この地の徳というのは、前世において自分がどれほど徳を積んできたてかという過去の徳分のことである。

 ~(中略)~

 この地徳の有無が、社会で才能が認められて開花・結実するかどうかに関わってくるし、また、ツイている人とツイていない人との違いとなるのだ。

 三つめが、天徳である。

 この天の徳は、神の道に生きようとする人間、根源的な信仰力を持っている人間に備わるものなのである。神仏に深く帰依しているとか、天の正しき道を貫いて生きてきたとか、あるいは神様仏様に対して功徳を積み、信仰力を磨き錬磨し、一人でも人を救済してきた人は、天の徳が授けられているのである。

 この天の徳を持つ人は、悟りとか叡知やパッとひらめく発想、才能、霊的な素質を有するとともに、危急存亡の折にも助けを得られるのだ。

 世で活躍する一流の人物というのは、たいていこうした、人・地・天の徳を兼ね備えているのである。

引用ここまで----------

ということで、徳分が足りなければ、どんなに努力をしても社会的に認められて成果があがるということにはなりにくいようです。したがって自分自身を磨く努力をしながら、その上で、十年後、二十年後を見すえて今黙々と徳を積んでいくことしていくという姿勢が大切になってくるのでしょう。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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守護霊という存在がどういうものなのか、その点を理解しておかないと、お願いしてみたりねだってみたりしようにも現実味が出てきません。ほとんどの人の場合、自分の親の親のそのまた親のその親の親の親…が守護霊さんです、ということになっているようです。血がつながっている先祖であることが多いようですね。深見東州先生の「大創運」からお借りしてみたいと思います。

引用ここから---------

 ~(略)~、 あなたの才能や運気は、すべてあなたが前世で行った修業や、努力の積み重ねの結果である。そして、それに合った家運の家に生まれてきているはずなのだ。

 そして、これらの才能や運気を開花させるには、あなた自身が、心の目を開き、己の素質のありどころを知ることが大切だ。

 そうすれば、あなたが成功を収める条件の半分は、ここにすでに整ったことになる。

 あとは、みずからの才能を磨くための努力をすればいいと言いたいところだが、実はそれだけでは不足である。

~(中略)~、「前世から受け継いで才能や運気を開花させるには、努力だけではだめである」ということを思い返してほしい。

 努力はしなければならないが、~(略)~ 徳性の涵養が必要となるのである。徳には天徳、地徳、人徳とあるが、授かるのに時間がかかる。

 そこで、誠で祈れば即授かる徳があるので紹介しよう。それが神徳である。厳密に言えば、天徳の一部であり、神徳もさらに厳密に言えば、神霊の徳と霊徳とに分類される。だからこれらを活用せず、自分の力だけを信じて生きれば、むなしい結果しか得られない。

 努力をしつつも、己の力の至らなさを認める謙虚さ、クールさ、そして出世の意欲。つまり古いタイプと新しいタイプのサラリーマンの考え方から、いい部分だけをピックアップしてみればどうなるのか。必ず神霊界から、その人の誠に応じて援軍がさし向けられる。この援軍が守護霊であり、その霊徳なのである。

引用ここまで----------

努力そのものは怠ることなく継続する、しかし同時に、自力だけで物事を成就完遂(じょうじゅかんすい)できるわけではないこともきちんとわきまえて、謙虚に他力に頼ることもしている。

こうした、自力と他力を十時に組んで物事を前進させていこうという姿勢によって、実り多い結果を得ることができるようです。物事が成就するのを見て、そうした結果が自力のみによるものではないのだと自覚して、だからこそ他力に感謝するのを決して忘れない、こういう人であればいつまでも他力からの守護を大いに授かり続けることができるわけですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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「守護霊は必要に応じて、人生の転機に応じて、どんどん交替する」のですが、守護霊が交替することで、現実世界にもその結果が出てくることになります。再び「神社で奇跡の開運」からご紹介いたします。

引用ここから---------

 守護霊が替われば、性格も変わる。体形もまた変わる。より高い守護霊にきていただくと、急に環境が変わったりもする。そして、守護に値する人間になってほしいから、それだけ守護霊の要求レベルも高くなり、指導のあり方も、必然的に以前よりは厳しくなる。

 たとえば急に両親が細かいことまでチェックしたり、先生が文句を言うようになったり、友達までが細々と忠告するようになったりする。本人は急にピリッとして、顔が精悍になったり、眼光に輝きを増したりする。それで周囲の人々も、何かが変わったな、ということが確認できる場合が多いのだ。環境の変化や志の転換などによって、自然に行われる守護霊の交替も、よくこのとことをふまえていれば、いつ頃なされたのか、自分でもだいたいはわかるはずである。

引用ここまで----------

守護霊からのメッセージは、やはり自分の両親、学校の先生、そして自分の友人、こうした「身近な人間関係」を通して伝えられることが多いようですね。したがって、身近にいる人達からの忠告や苦言を避けてばかりいるのでは、せっかく自分の守護霊が何か大切なことを伝えようと頑張ってくれているのに、そのメッセージを無視してしまうことになります。それは、守護霊が交替してより次元の高い生き方、より中身の濃い生き方をさせるべく導こうとしているのを拒否することに他なりません。それゆえ、周囲の人達からもたらされる前向きな助言を無視・拒絶ばかりしている人の場合、結局高級な守護霊はその人を導くことができないからということで、去ってしまうことになります。まさに「いつまでもフラフラしている人には高級霊は前面に出てきて導いてくれない」(前掲書)ということになるのです。

しかし、何でもかんでも人に相談して、いつまでも優柔不断なままで決断・実行することができず、良し悪しの判断がつけられないまま、何もかも宙ぶらりんのままになってしまう人も中にはいるかもしれません。頑固で人の言葉を聞く耳をもたないのもいけませんが、人の言葉に流されすぎて主体性を失ってしまってもまたいけません。

決断をしていくためには、やはり「より難しいことに挑戦していく、いっそう前向きに取り組んでいく、さらに前向きに工夫していく」という選択をすることが鍵となるようです。なぜなら、そういう生き方をすることこそが守護霊が加勢してくれる生き方であるからです。前向きな決断をし、また前向きな発願をすることで、善き守護を受けることができるのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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神人合一と言いますが、最初に目標とすべきはやっぱり守護霊と一体となることのようです。守護霊は、多くの場合、自分と血のつながった先祖の中で、生前の行いが徳が高く道を修めたような霊で、神様から許可を与えられた霊がなっているようです。自分の守護霊とツーカーの間柄になれば、「なんとなくそうしたほうがいいような気がした」、「どうしてもそうしたくなったので途中で引き返した」といった種類のヒラメキが増えるような気もします。

それではどういう仕組みでこういったヒラメキがやってくることになるのでしょうか。

まず大事なのは、「守護霊は必要に応じて、人生の転機に応じて、どんどん交替する」という事実を理解することです。「神社で奇跡の開運」からご紹介してみたいと思います。

引用ここから---------

 守護霊は背後霊の中から出てくるといったが、正確には背後にいるたくさんの霊の中から、いい霊達が守護霊団を結成する。そのチーフをいわゆる守護霊と呼んでいるわけだ。

 チーフはその人のニーズに応じて、神様の意に沿った人事によって決定される。その神が守護神というわけである。まず小学生の頃は体力作りが大切だから、武術をきわめたような人の霊を守護につける。次に、中、高校生で勉強しなければならないときには、人生というものの理解力や咀嚼力(そしゃくりょく=文章やことばの意味を考えて理解する能力)を養うために、学者などの霊に守護霊の役を担当させる。

引用ここまで----------

その人の守護霊が替わると、その人自身の性格も変わるし体形も変化するのだそうです。ですから、自分で自分のことを思い出してみて、自分の性格が急に変わったり、自分の行動が突然内向的な姿勢から積極的に自己表現するように変化した時など、そういった大きな変化があった時に守護霊が交替していることが多いようですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

だまされて玉串を出した場合はどうなるのか、この点についても「神霊界」に説明がありますので、さらに続きをお借りしてみたいと思います。

引用ここから---------

 過去にどんな悪どい宗教団体や霊能者にだまされて、何百万、何千万のお金を出したことがあっても、そのときの気持ちが、「団体のためにした。霊能者先生にした」のであれば、ほとんどが己れの欲心からしたのであるから、ある程度、自分にも責任があったのである。

 ところが、そのときに神仏にさせていただく、神仏のために、是非、自分なりに精いっぱいさせていただきたいという純粋な気持ちでしたのならば、それは誠であり、神霊界では、黄金まばゆい天徳となっているのである。

 そのことは、守護神も守護霊もよくご存じのことであり、一時苦しくても、必ずや何らかのかたちで、その霊たちがその分返して下さるのである。だから、献金した後で、その団体がインチキであり、悪どいものであり、霊能者先生が大悪人であっても、決して悔やむことはないのである。守護神、守護霊および主神は、全てお見通しである。

 むしろ、その後そのことがわかって、「空しい、くやしい」と自分が感じたとき、自らの信仰が本当の神様や神霊世界に対するものではなく、組織や人を対象にした信仰であったという、浅はかさと至らなさを自覚し、反省すべきでありましょう。

引用ここまで----------

玉串を納める時の自分の腹の中がどうだったのか。どういう動機で自分がその玉串を納めたのか。こうした点が玉串の是非を決めるのですね。

要は「お蔭信仰」で納めた玉串は、ほとんどの場合、間違った納め方になってしまうということでありましょう。ですから、どういう考え方で信仰をするのか、結局はこの点にかかっているわけですね。

「何の努力や苦労もないまま、何も努力しないままで、1万円納めたものが10万円になって返ってくる」といった話はお蔭信仰そのものです。「ここにお参りするだけで何でも全部うまくいくらしいよ」という話はお蔭信仰そのものなのです。そういう話を信じて、自分の損得を計算して納得したあとで玉串を納めてもお蔭信仰でしかないから、だからあとになって裏切られたと感じてしまうのですね。

「神様の御用の役に立つならそれだけで十分だ」、「この物施と自分の誠にふさわしく徳が積めて、自分のカルマが解消していただけるなら、それで十分ありがたいことだ」といった姿勢で納めてこそ、玉串が5倍、10倍に輝く納め方なのではないでしょうか。そして、そういう姿勢で神様に向かった時にこそ、真実の神徳によって報われることになるのです。

(つづく)

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玉串に関して、「神霊界」の説明から前回の続きをお借りしてみたいと思います。実際にあった話が書かれています。


引用ここから---------

 かつて、私がワールド・チャリティ・ファンドをつくって、チャリティー講演会をしたとき、御玉串料に一円玉が一枚ポッキリ入っていたことがある。本人にとってみれば、ジョークのつもりであろうが、その一円玉に残る気を審神してみた。※審神=さにわ

「何をいっているのだ。気持ちさえあれば、一円だってないよりはましなのだ。気持ちなのだ。ゼロよりは一円のほうがいい。一円でもあるほうがいいと思うがいい」

 というものであった。

 これに対し、黄金まばゆい三千五百円があった。その札には、

「今、財布には四千円しか残っていないが、電車代とバス代を残せば、三千五百円を献金できる。これをさせていただこう。役立てていただこう。神様に……」

 というものであった。一万円札もあった中で、この三千五百円が最高であり、一円玉を出した人の五万円ぐらいの値打ちに匹敵していたのである。

引用ここまで----------

まさにここに記されている内容こそ、玉串を納める時の祈り方の最善の例と言えます。金額の大小ももちろんあるのですが、金額が2倍になったからといって神徳も単純に2倍になるとは限らないということです。どのようにして自分の誠をこめるのか、そこが大切なところなのですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

玉串に関して、深見東州先生の「神霊界」から、さらにお借りしてみたいと思います。玉串をする時の何が大切なのか、ということについて書かれています。

まず金額について、どのように考えればよいのか、説明があります。

引用ここから---------

 一般に、神社、仏閣や宗教団体などで、玉串料や供養料、献金を行う場合、どれくらいが適当であるかについて述べてみたい。

 ひと言でいえば、自分なりに「ちょっと痛いな」と感じるぐらいが適切なのである。楽すぎても、苦しすぎてもよくないのである。

 要は、いかに誠がこもるために、自分自身が真剣になれるかである。だから、「ちょっと痛い」ぐらいが適切なのである。

引用ここまで----------

1,000円の重み、5,000円の重み、1万円の重みは年齢とその人の社会的立場によって、また信心の深浅によって異なってくるものでありましょう。

自分に不釣り合いな金額を出してしまうと、うまく誠がこもらない、ということなのですね。

したがって、場合によっては若い人は手が出ないという金額のものも出てきます。そういう場合には、無理をしてそういう金額を納めようとすることは、心根の部分では間違っていないとしても、やはり現実的には適切でないと言えるでしょう。そういう無理している様子を見ている家族や周囲の人達が、誤解してしまうことがあるからです。

ですので、金額の面で無理をすることなく、折に触れて深見東州先生が説明されているように、小さな金額であれば祈る時間を長くし、繰り返して何度も祈り、最後には「それでも一切は神様にお任せいたします。私にも良く、相手にも良く、私達を取り巻くすべての人達にとって良くなりますように」と念じつつ「かんながらたまちはえませ」と繰り返して、それでお祈りを締めくくればいいのですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

玉串に関して、深見東州先生の「神霊界」に説明がありますので、そちらをご紹介したいと思います。

引用ここから---------

 ところで、全ての行事に参加される方にお願いしたいことがある。

 それは、誠とは形に出して真となり、形に真がこもって誠が完成するという、日本神界の法則があることだ。だから、真に意義を見出されたときのみご参加下さい。

 そして、その際は、ワールドメイトのためでも、深見東州や植松先生のためにするものでもなく、神様に捧げるおつもりでしていただきたいのである。

 そうしてなさったお金は、即座に黄金に輝き、神霊界に貯金する御玉串になるからである。

 お金とは恐ろしいものだが、真に運用する心の準備と誠の道を知れば、人を動かし、物を動かし、神霊世界をも動かすものであることを知っていただきたい。

 ぜひ、そのようにして向かわなければ、お金が単なるお金となり、神霊的にみれば至極もったいないことであるといわざるを得ない。

引用ここまで----------

ここで深見東州先生がおっしゃっていることをくどく繰り返してみますが、まず最初に、「真に意義を見出されたときのみご参加下さい」とあります。意義が見出せないなら、参加なさらないで下さい、ということですね。神事にせよ、神法にせよ、必ず何のためにそれが執り行われるのか、そして参加者はどのように祈るべきなのか、必ず説明されているのです。そうした解説を丁寧に読んで意義を理解することなく、せっかちに結果だけを求めて参加してはいけません。そのままではいつか必ず証しが出なくなる時がやってくるかもしれないからです。

そうした神事を行う理由、そうした神法が世に出る理由というのがちゃんとあって、その意味が理解できないまま参加するのでは、極論を言うならパチンコをするのと変わらなくなってしまいます。別の言い方をするなら「おかげ信心そのもの」ということですね。

神事・神法が執り行われる背景や、神事・神法そのものが持つ意義・意味を理解して、相応しく誠の祈りを捧げてこそ、始めて参加する準備ができたと言えるでしょう。

そして、誠の祈りというのは、「どうかお金が儲かりますように」とか、「どうか志望校に合格しますように」といった、誰もがつぶやくセリフとは全く異なるものなのだということをよくよくわきまえていなければなりません。

自分の情熱と言葉で、神仏に届く祈りを捧げることができないなら、神仏が動くことはないのです。祈り方がわからないままでは証しは出ない場合が多いのです。

正しい祈り方を体得した上で、正しい玉串の納め方を実践し、ぜひとも証しを体験していただきたいと思います。

玉串料は料金ではありません。玉串とは人や団体に対して支払うものではありません。神徳を授けてくれるのは神様仏様なのです。

(つづく)

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tag : 深見東州 ワールドメイト

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

物施をする時、すなわち現金で御玉串を納める時には、その現金にこちらの正しい心が伴っていないと、本物の「玉串」にならないのです。

「神様にお捧げするお玉串を審神してみるとわかるのだが、『この程度の金を包んでおけばいいだろう』とか、『これだけ包むのだからちゃんと功徳も大きいんだろうな』とか、ひどいときには『どうせ金儲けなんだろ、つきあいで恵んでやろうか』といった気持ちが入っていたりする。残念なことだが、こういう物施はほとんど徳分にならないのである。

 そこには神様への真心と愛念がひとかけらも込められていないからだ。

 ~(中略)~

捧げさせていただくと考えなければならないのだ。功徳を積ませていただくのである。カルマを解消させていただくのである。」

と「絶対運」で書かれている通りなのです。

玉串料の金額を見てその金額を納めようという時に、「この玉串に私の真心を乗せて納めさせていただきますので、どうか神仏にわが誠を受け取っていただいて、功徳を積ませていただくことができますように、カルマを解消していただくことができますように。この玉串が神様の御用のお役に立ちますように」と心の底から思いながら納めるのか、それとも「この金額で一定量の功徳があるということだが本当だろうか。この金額を料金として払っておけば功徳があるというのなら、とりあえず払っておくか」と思いながらお金を出すのか、いずれになるのかでそのお金にこめられる誠の密度が全然違ってきてしまうのです。

誰に対して玉串を納めようとしているのか、誰が自分の玉串を受け取ることになると考えているのか、こうした点について考え方を間違っているなら、そのままでは本当の神仏からの恵みを受け取ることが難しくなってきます。

玉串料は料金ではなく、玉串とは人や団体に対して支払うものではないのです。神徳を授けてくれるのは人間ではなく、三次元の目には映らない神仏こそが神徳を現して下さるのです。

しかし、神仏の活動やその結果であるとも言える神徳・仏徳を真に取り次ぐことのできる取次者も、そこらにいくらでも転がっているわけではありません。大きな神霊になるほど、また繊細な神霊になるほど、正しく取り次ぐことに困難が伴うようになるからです。だから、妙なる取り次ぎを執り行ってくれる取次者についてもまた、神仏に準じる敬意をもって接していかねばならないのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

証しがちゃんと出ない人、証しを体験できないという人にも、共通点があるかもしれません。

もう一度深見東州先生の「絶対運」を見ていただきたいと思います。

引用ここから--------------

 施すこと、布施をすることは耳新しいことではないと思うが、少々説明しておこう。

 体施とは、体を使って労働奉仕をすることである。たとえば上野公園の出入口や駅前の広場を、せっせと掃除をしてきれいにするとか、新宿の公衆便所を毎日毎日、きれいに磨きあげるといったことを、一年間とか二年間とかの期間中、続けて行うことである。

 隣の寝たきり老人の食事を作ったり下の世話を二、三年、無報酬で、しかも人に自慢することなく黙々と続けるのも体施であり、徳分が確実に積みあげられていく。

 しかし、仕事を持ち家庭もあったりすれば、そういう気持ちはあっても、実際にはなかなか体施などできないのが現実である。

 そんなときは、一番簡単な物施をやればいい。物施とは、お金や物品で施しをすることである。忙しくて身体を使った徳積みができない場合には、自分の収入の中から、お玉串とかお布施をするのがそれである。

 この物施は、体施よりも実行しやすいが、しかし、それほど徳分にならない場合がある。たとえば神様にお捧げするお玉串を審神してみるとわかるのだが、「この程度の金を包んでおけばいいだろう」とか、「これだけ包むのだからちゃんと功徳も大きいんだろうな」とか、ひどいときには「どうせ金儲けなんだろ、つきあいで恵んでやろうか」といった気持ちが入っていたりする。残念なことだが、こういう物施はほとんど徳分にならないのである。

 そこには神様への真心と愛念がひとかけらも込められていないからだ。

 布施ということばに象徴される神仏に対するあり方を理解できないからだろうが、神仏や相手に恵んでやるという気持ちがあるとき、もはや布施ではなくなる。そうではなくて、捧げさせていただくと考えなければならないのだ。

 功徳を積ませていただくのである。

 カルマを解消させていただくのである。

 恵んでやるという態度と徳を積ませていただくという姿勢とでは雲泥の差がある。

引用ここまで----------------(深見東州著、「絶対運」から)

自分の抱えている劫と同じくらいの徳を積極的に積むこと、これがより前向きな劫祓いの方法です。より自分から能動的に自分の運命に働きかけようとする姿勢だと言えるでしょう。

不運を不運だとしてとらえている限り、自分が苦しんで劫をあがなうという消極的な姿勢にとどまることになります。しかし、不運に甘んじることなく、自分から積極的に徳分を積むことでカルマをより早く解消していこうという考え方、この「徳積みをさせていただく」という生き方ができるようになると、段々とカルマが解消されていくのが実感できるようになります。そして、ある一定量を超えたところからは、福徳というおつりをいただけるようになるのです。

徳分を積むには、三つのやり方があるのですが、その三つである「体施・物施・法施」の中で、正しいやり方で行った時に最も容易なのは物施です。

ところがその物施をする時に、正しくお祈りができていないために物施の徳を積むことがうまくいかず、その結果証しが出ないのではないでしょうか。

(つづく)

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