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ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

2003年3月17日、イラクに先制攻撃となる空爆を行い、2日後の3月19日、アメリカ軍はイギリス軍などと共にイラクへの侵攻を開始します。このイラクへの攻撃に対しては、フランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明していたのですが、その反対を押しきっての侵攻だったのです(なお、国際連合で拒否権を行使できる安全保障理事会の常任理事国は、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、中華人民共和国の5ヶ国です)。イギリスでは、この侵攻に反対して、当時、閣僚が相次いで辞任しています。

イラクへの侵攻を正当化するために、アメリカとイギリスが主張した開戦の理由は次のようなものでした。

1.イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている

2.独裁者サダム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど多くの圧政を行っている

3.度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の廃棄確認が困難である

4.度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687(イラクは大量破壊兵器を持たないこととする)が破られている

5.国際連合安全保障理事会決議1154で「いかなる侵害も、イラクにとって最も重大な結果をもたらすであろう」という、湾岸戦争停戦協定破棄条件の決議、つまり最終警告がされていた。

6.決議1441(イラクが武装解除義務の重大な不履行を続けていると判断し、イラクに、大量破壊兵器および関連計画について全面的かつ完全な申告を30日以内に提出するよう要求)では『最後の機会』が与えられたにもかかわらず、イラク側は査察に積極的な協力をしていない

7.フセインとアルカイダが協力関係にある可能性がある

つまり、湾岸戦争でイラクが敗れた後、イラクは大量破壊兵器(核兵器、生物兵器、化学兵器)を持たないことになっていたのですが、実は密かに保持しているのではないかと疑ったのです。そして、なぜ兵器の保持を疑ったのかというと、フセイン大統領が国連の査察を拒否し始めたからでした。

しかしイラク侵攻の後、実際に調べてみると、イラク国内に大量破壊兵器など存在しなかったのです。

ブッシュ大統領は2003年5月1日、演説して戦争終結宣言を出します。しかし彼は、イラクにはアラブ人とクルド人がいること、イスラム教徒といってもシーア派とスンニ派に分かれていること、そして、フセイン政権下でこうした人達が無理矢理にまとまっていたということ、こうしたことを知らなかったのです。

フセインは2003年12月13日に逮捕され、裁判を経て2006年12月30日、死刑が執行され亡くなります。フセインはスンニ派のアラブ人であり、イスラム教徒全体の中ではスンニ派は8割を超える多数派なのですが、イラクでは状況が逆で少数派でした。そして国民の過半数がシーア派であり、イラク国内では少数派となるスンニ派が支配層を占め、シーア派は被支配層を占めていたので、フセインが処刑された際にはシーア派の市民が歓喜し、スンニ派の市民は死刑を執行した政権を非難したということです。

イラク侵攻が終わり、フセインがいなくなった後、イラクではシーア派勢力、スンニ派勢力、そしてクルド人の勢力の三つが争いを始め、内戦が始まってしまいます。この内戦は2016年現在も続いているのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

イラクがクウェートに侵攻したことで始まった湾岸戦争の直接の原因は、イラン・イラク戦争にあったと言われているようです。

イランで起きた革命が中東の他の地域に輸出されることがないよう、イランを抑えるために戦ったのだ、というのがフセインの言い分でした。

クウェートは、もともとイラクの領域も含めてオスマン帝国の領土に含まれていたのですが、1899(明治32)年にクウェート地域を治めていた総督が自らイギリスに下り、イギリスの保護領になることでったことで後に国として成立した、という経緯があったのです。したがってイラクは共和制になって以降、クウェートに対する主権を何度か主張していたのです。

イラク→https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF/@33.2053979,41.4415209,7z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x1557823d54f54a11:0x6da561bba2061602?hl=ja

イラン・イラク戦争後、アラブ諸国の原油の生産量については、OPECでの話し合いによって価格維持の目的で各国に一定量が割り当てられていましたが、サウジアラビアやクウェートはその割当量を無視して大量に原油を採掘し、その結果原油価格が値崩れを起こしてしまいます。原油を輸出して外貨を獲得し国内経済をやりくりしていたイラク経済は行き詰まってしまったのです。

1990(平成2)年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセインは、「クウェートが割当量を尊重しない場合は、軍事的手段を取る」とクウェートを非難しています。

クウェート→https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88/@29.3141038,46.9313166,9z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x3fc5363fbeea51a1:0x74726bcd92d8edd2?hl=ja

サウジアラビア→https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2/@24.2109356,40.6146978,6z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x15e7b33fe7952a41:0x5960504bc21ab69b?hl=ja

クウェートのブルガン油田では、アメリカのメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシャ石油による合弁会社「クウェート石油」が生産を開始しますが、1975年にこの会社は国有化されます。クウェートでは石油が主要産業であり、世界第4位の埋蔵量があります(そのため、レンティア国家の一つに数えられる)。原油による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている、こういう国がクウェートです。

イラクとクウェートの間では、ルマイラ油田の盗掘、原油採掘の割当量違反、軍事拠点の件などを巡って非難合戦が続き、エジプトが仲介に入るのですがイラクが受け入れず、イラクが頼みにしていたアメリカも不介入の方針を打ち出したことが最終的なきっかけとなって、1990(平成2)年8月2日現地時間午前2時、イラク軍がクウェートに侵攻して湾岸戦争が始まったのです。

イランとイラクが戦った時には、欧米諸国はイラクが革命の防波堤となってくれることを期待してイラクを支援しました。しかしクウェート侵攻に際しては、多国籍軍を組織してイラクを撃退することになります。

イラクのクウェート侵攻後、サウジアラビアはアメリカに助けを求めます。そこでアメリカは「砂漠の嵐作戦」を発動し、サウジアラビアに軍を展開させるのです。

サウジアラビアは、石油生産のおかげで貧困にあえいでいたのが豊かな国に生まれ変わったのですが、この国で初めての油田を発見したのがアメリカの石油会社で、「アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー」を設立して石油を採掘してきた、こうした経緯があるため、親米国家となったのです。

しかしサウジアラビアにはメッカとメディナというイスラム教の聖地があります。この、イスラム教の聖地があるところに異教徒の軍隊が駐留したのです。敬虔なイスラム教徒たちは強く反発します。その中には、かのオサマ・ビンラディンもいましたが、彼はサウジアラビア国王を激しく非難し国外追放となるのです。

サウジアラビアは、アメリカ軍と親密な関係を持っており、アメリカ中央軍第3軍の部隊駐留を認めています。また、キング・ハリド軍事都市など国内に複数の米軍基地が配置されています。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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イラクイラク共和国、首都バグダッド)はメソポタミア文明が栄えた地そのものと言ってよい場所だということなのですが、古くから農業が行われ、様々な王朝が入れ替わり立ち替わりこの場所を支配してきたということです。

ウマイヤ朝(歴史上最初のイスラム帝国(661-750))が始まる前の正統派カリフの時代には、既にイラクはイスラム帝国の版図(=領土、勢力範囲のこと。)に取りこまれていました。ウマイヤ朝が亡び、アッバース朝が興ると、762年からバグダッドの造営が始まり8世紀末から9世紀初頭(790年頃~809年)には人口は150万人にもなり、当時、唐の長安とならんで世界最大の都市となったのです。バグダッドは、その造営に際して占星術が応用された都市としても知られています。インドからはゼロの数字をもつ数学が伝わり、インド数字をもとにアラビア数字がつくられたのです。また、数多くのギリシア語文献が収集されてアラビア語に翻訳されたことでも有名です。9世紀前半にバグダッドに建設された「知恵の館」では、プラトンやアリストテレスなどの著作が翻訳・研究されました。以後、バグダッドは、東方におけるギリシア学術研究の中心地となり、アッバース朝の下でバグダッドでは、ギリシャ・ペルシャ・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラム文化が発達します。これはのちにラテン語に翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響を与えることになります。

話は飛びますが、様々な歴史を経て、20世紀にはイラク王国が成立します(1932年、昭和7年)。この王国はスンニ派が中心となる王国でしたが、1958(昭和33)年にクーデターが起きイラク共和国が成立します。その後1963(昭和38)年には二度のクーデターが起き、エジプト寄りの国家運営となります。そして1974(昭和49)年から1975(昭和50)年にかけて、サダム・フセインが権力を握ります。正式なサダム・フセイン政権は1979(昭和54)年に誕生し、翌1980(昭和55)年イラン・イラク戦争が起き、この戦いはおよそ八年間続きます(1988年停戦)。

そして、イラン・イラク戦争が終わってわずかな期間を置いて、今度は1990年にクウェートに侵攻、1991年からは湾岸戦争が始まることになります。

(つづく)

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tag : イラク バグダッド ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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かのフセインが大統領をしていた国といえば「イラク」なのですが、そのイラクはイランの西側に位置する国ですね。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF/@33.2053979,41.4415209,7z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x1557823d54f54a11:0x6da561bba2061602?hl=ja

現在、内戦が起きている「シリア」の東側に位置している国です。

このイラクも、シーア派(イスラム教徒全体の15%程度を占める)の人口が多い国です。

それでは「イラン・イラク戦争」はどうして起きたのでしょうか。原因としては、少なくとも二つの理由があるようです。ひとつは、両国間で国境を巡る問題が長い間くすぶってきたことが挙げられます。チグリス川とユーフラテス川は合流した後、シャットゥルアラブ川となってイランとイラクの国境地帯を流れ、ペルシャ湾に注いでいます。この国境地帯の領土問題と航行権問題、この二つの問題で両国は長きにわたって対立していたのです。

もうひとつの理由としては、隣国で起きた「イラン革命」を挙げることができます。この革命が契機となったのです。イラン革命の余波が自らの国に及んで、自分達の政権が打ち倒されるのではないかと恐れたイラクのフセイン大統領がイランを奇襲してこの戦争が始まったのでした。イラン革命自体は、もともとパーレビ国王の独裁体制に反対する勢力によって起こされた「民主化運動」だったのです。結局イランで政権を勝ち取ったのはホメイニ師が率いていたイスラム原理主義勢力だったのですが、彼らはシーア派だったのです。そして今度はイラクはというと、イラク国内ではシーア派とスンニ派の比率が逆転しており、イスラム教徒全体ではスンニ派が多数を占めるものの、イラク国内ではスンニ派は少数派だったのです。そしてフセインは、このイラク国内では少数派となるスンニ派に属していたのです。そこで彼は、シーア派によるイスラム革命がイラクにも飛び火するのではないかと恐れたのです。

イランでのイスラム革命は、1979(昭和54)年2月に反体制側が権力を掌握し、同年4月1日、イラン・イスラム共和国の樹立が宣言されて成就します。そして、革命の混乱からイランが完全にまだ脱していない1980(昭和55)年9月22日、この日の未明に、イラク軍が全面攻撃を開始し、戦争状態に突入したのです。

周囲のアラブ諸国はイラン革命が輸出されるのを嫌がり、イラクがイランを攻めるのを黙認します。親米だったイランのパーレビ国王がイランから逃げ出してアメリカに亡命していたのですが、この国王の引き渡しを求めて前の年、1979年の11月にアメリカ大使館人質事件が起きたことから、アメリカはイランとの国交を断絶しており、イラクがイランに攻め込んだことをひそかに支持します。イランはイラクに攻め込まれたことがきっかけとなって国内はまとまったのでした。

イラン・イラク両国の戦争状態は紆余曲折を経て1988年8月まで続き、8月20日に停戦が発効し、ようやくこの戦争は終わったのです。

(つづく)

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イランは、そもそもアラブ人の国家ではなく、ペルシャ人の国なのです。また、イスラム教徒の多数を占めるスンニ派(イスラム教徒全体のおよそ85%を占める)ではなく、少数派のシーア派(およそ15%)の国なのです。

イラン・イスラム共和国→ https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3/@32.3503541,49.191997,6z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x3ef7ec2ec16b1df1:0x40b095d39e51face?hl=ja

そして隣にあるイラクもシーア派の人口が多い国なのですが、イラク国民のイスラム教徒のうち、そのおよそ半分がアラブ人シーア派(50%)であり、アラブ人スンニ派はイラクのイスラム教徒全体のうちの25%、クルド人のスンニ派が20%です。

イラク共和国→ https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF/@33.2053979,41.4415209,7z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x1557823d54f54a11:0x6da561bba2061602?hl=ja

イランはペルシャ文明の発祥の地であり、イラクはメソポタミア文明の発祥の地です。どちらの地域でも、イスラム教が生まれる前から独自の宗教観が確立されていたところにイスラム教がもたらされました。イランとイラクとでは、シーア派を取り巻く状況が異なるようですが、特にイランでは、一見イスラム原理主義はそれほど徹底されていないように見えます。

実際、イランは他の中東諸国とはまったく異なっているようです。女性の社会進出が進んでおり、都市部では若い女性がジーパンをはいて普通に歩いているということです。また、聖者廟という過去のイスラム教の聖者を祀ったお墓がそこらじゅうにあって、日本人が神社に行くのと同じように、ペルシャ人がお参りに行くのだそうです。これは当然偶像崇拝だとみなされるため、スンニ派の世界ではあり得ないことです。

もともとサザン朝ペルシャだったところにイスラム教がもたらされたのが651年、サザン朝の滅亡によってウマイヤ朝の版図に吸収されてイスラム化が進みます(日本では大化の改新があったのが645年)。その後、19世紀にはイギリス、ロシアなどに植民地化されますが、ロシア帝国が革命で亡び、ソビエト連邦が成立してロシアの勢力が撤退し、続いてイギリス軍も引き上げて、1926(昭和2)年にいったんパーレビ朝が成立します。ところが第二次世界大戦の際に再びイギリスとソ連によって領土を分割されてしまうのです。パーレビ朝の下では独裁が進み、イランの石油事業をアメリカ・イギリスの企業が独占し、こうした企業にとって都合の良い国家運営が行われるようになります。1950年代から60年代にかけて、イランはアメリカの支援を受けて急激に発展し、「西欧化」を進めました。その結果、経済は発展する一方で貧富の差が広がり、国民の間に不満が募るようになったのです。

そうした状況下でホメイニ師が登場し、革命勢力を動かして1979(昭和54)年のイラン・イスラム革命を経て、今のイラン・イスラム共和国が成立したのです。イラン・イスラム革命の結果、ホメイニ師は最高指導者となり、イランではイスラム法学者による統治が行われるようになります。これはイランでもイスラム原理主義による政治が始まったことを意味しますが、すでに「西欧化」が進んでいたため、現在のイランは、イスラム教徒の国としては他の中東諸国とは異なる社会風景を見せるようになったのでしょう。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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中東戦争の結果、パレスチナに居住していたイスラム教徒たちが追い出されることになり、「パレスチナ難民」が発生することになりました。パレスチナ人は、1964(昭和39)年パレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)という組織を設立し、話し合いによって「イスラエルの建国によって生じた諸問題」を解決しようとします。

ところが、1969(昭和44)年、ヤセル・アラファトがPLOの指導者に就任した時から、組織は一変し、「武力を行使してもパレスチナの土地を奪還する」という方針に転換します。この時からPLOは「反イスラエル」のテロを世界中で始めるようになります。

しかしその後、1993年9月13日にオスロ協定が調印されます。イスラエルとPLOとの間で、パレスチナ人の暫定自治の原則が宣言されたのです。結果として、パレスチナ人が多数居住しているヨルダン川西岸地区(いわゆるウエストバンク)とガザ地区(地中海側の帯状の地域)を暫定的に自治区として認め、自治が承認されたのです。

この協定に調印したのは、イスラエル側の代表であったラビン首相とPLO側の代表であったアラファト議長でした。イスラエルのラビン首相は、2年後にテルアビブでカハネ主義者(人種差別主義の一種。ユダヤ民族が最も優れた民族だと考える主義のこと。)のイガール・アミルに射殺されます。アラファトは2004年、ウエストバンク(=ヨルダン川西岸)の大統領府からフランス・パリに移された後、脳出血で亡くなります。

アラファトの発揮していた求心力が失われると、PLOは二つの分派であるファタハとハマスに分裂します。ウエストバンクはファタハが支配し、ガザ地区はハマスが支配することになります。

イスラエルは、ハマスをテロリストだとして退け、主流派だとしてファタハを相手に和平交渉を重ねてきました。ところが2014年に入ってこのファタハとハマスの和解が成立し、再びパレスチナ統一政府を作ろうという流れになったのです。

これに対してイスラエル側は和平交渉の中断を宣言し、イスラエルとパレスチナという二つの国家が共存するための話し合いは暗礁に乗り上げてしまいました。

中東問題の解決の先行きは、全く見えていない、というのが現実のようです。

(つづく)

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中東問題の根本的な原因を作り出したのはイギリスです。

19世紀(1801年~1900年の期間)は、帝国主義・植民地主義の時代でした。

19世紀には、例えば日本では、1867年(慶応3年)に大政奉還、王政復古の大号令がありそして翌年に明治改元が行われ、明治元年旧9月8日を1868年10月23日とするといったことがありました。イギリスは1840年に清国との間で阿片戦争を起こし、中国大陸への侵略を始めています(このイギリスの振る舞いが日本を刺激し明治維新につながる)。ロシアは1853年にクリミア戦争で、フランス、イギリス、オスマン帝国などと戦っています。

エルサレムとその周囲のパレスチナは当時、オスマン帝国が支配していました。オスマン帝国は、1453年、東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(今のイスタンブール)を自分たちの国の首都としました(日本では1467年に応仁の乱が京都で起きている)。オスマン帝国の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒だったのですが、その版図は広大で、各地に様々な民族と宗教を抱えたため、イスラム教の信仰が強制されたわけではなかったようです。

イギリスは第一次世界大戦(1914年~1918年)でオスマン帝国と戦います。イギリスが支配していた植民地とイギリス本土を結ぶ位置にパレスチナがあったため、どうしてもイギリスはパレスチナを支配下に置きたかったのでした。

そこでイギリスは、オスマン帝国を倒すために、オスマン帝国を敵視する可能性がある勢力をすべて利用する、という方法に訴えることになります。それはイギリスの「三者を騙す外交交渉」とでも言うべきものでした。

その三者とは、1.オスマン帝国内のアラブ人たち、2.フランス、3.ユダヤ人、でした。

イギリスは、オスマン帝国内のアラブ人と「フサイン=マクマホン協定」を結び、オスマン帝国に対する反乱を行えばアラブ人の独立を支援すると合意します。しかし同時にフランス、ロシアと、1916年のサイクス・ピコ協定でアラブ人の土地も含むオスマン帝国領を三分割する密約を交わしていたのです。さらに、1917年にはイギリスはライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に対して、パレスチナでのユダヤ人居住地(ユダヤ人民族郷土)建設の約束(バルフォア宣言)を交わしたのです。

その結果、第一次世界大戦の後、パレスチナはイギリスのものとなりますが(パレスチナをイギリスの委任統治領とした)、そこに、世界中からユダヤ人が集まってくることになったのです。こうしてアラブ人とユダヤ人との間でトラブルが起きるようになります。

その後、第二次世界大戦を経て、イギリスは、1947(昭和22)年に「パレスチナの委任統治を終了する」と発表し、パレスチナの取り扱いを国連に任せることにしたのです。

このとき以来、パレスチナの地ではずっと紛争が続いているというわけなのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 バルフォア宣言

中東戦争475

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中東問題とは、要するにアラブ人とユダヤ人の陣取り合戦だ、ということです。「土地を返せ」と主張するパレスチナ人と、「もともと神から授かった土地だ」と主張するユダヤ人との間で、争いが繰り返されて現在に至っています。

1948(昭和23)年から1973(昭和48)年までの間に大規模な戦争が4度起こっており、それぞれが第一次中東戦争、第二次中東戦争、第三次中東戦争、第四次中東戦争と呼ばれています。

第一次中東戦争は、イスラエルが建国を宣言した翌日に起こります(イスラエルでは独立戦争と呼ばれている)。1948年5月14日、イギリスによるパレスチナの統治が終了するその日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言しました(イスラエル独立宣言)。これに対してその翌日である5月15日、周囲のアラブ諸国、すなわちエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクの5ヵ国で構成されるアラブ連合軍がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が始まるのです。この戦争はイスラエルが優位な状況で停戦を迎え、イスラエルは、国連による分割決議以上の範囲の領土を確保することができたのです。

第二次中東戦争は、スエズ動乱、スエズ戦争などと呼ばれます。イスラエル軍がシナイ半島に侵攻する形で始まったのですが、その裏ではイスラエルとイギリス、フランスが密約を交わし結託していたというものです。発端は、エジプトがスエズ運河を国有化したことで、これに対してイギリスとフランスが運河を取り戻したいと考え、イスラエルを扇動したのでした。開戦後仲裁の名目でイギリスとフランスが介入しますが、結局国際世論に負け、スエズ運河は本当にエジプトの国有財産となってしまいます。

第三次中東戦争は、「6日戦争」とも呼ばれます。イスラエルの周囲にあるエジプト、ヨルダン、シリアが、イスラエルに対して不穏な動きを示したたことから、イスラエル側が先制攻撃に出て、6日間で戦いを終結させました。アラブ各国の空軍基地に対してイスラエル側が空襲を行い、壊滅的打撃を与えたことが勝因です。イスラエルは短期間のうちにヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区とシナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領し、「エルサレムはイスラエルの首都である」と宣言します。これ以降イスラエルはエルサレムに首都を移しますが、国際社会からは認められていません。

第四次中東戦争とは、「十月戦争」と呼ばれるものです。1973年10月6日、エジプトがシリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始されます。緒戦ではエジプト軍がシナイ半島に進出、シリア軍がゴラン高原を脅かしますが、最終的にシナイ半島、ゴラン高原のいずれにおいてもイスラエル軍が押し返し、イスラエル優位で戦争は終わります。緒戦においてエジプト軍が押し出し勝利を得たことから、エジプト・イスラエル両国首脳の認識に変化が生じ、後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びつくことになります。なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルを援助する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こしたのです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州

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中東問題は別名、「パレスチナ問題」ともいいます。

パレスチナには2000年前まで、ユダヤ人(すなわちユダヤ教徒)の王国がありました。ユダヤ人の聖典「モーゼ五書」には、パレスチナはかつて「カナンの地」と呼ばれた、神がユダヤ人に対して与えた約束の地だとされたことが述べられています。

しかし、王国はローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人たちはこの地を追い出されて世界各地に離散することになります。このユダヤ人の離散を「ディアスポラ」と言います。そして、イスラム教徒であるアラブ人たちがそのディアスポラの後、パレスチナに住むようになったのです。

ユダヤ人たちはディアスポラの結果、ヨーロッパへ渡っていくのですが、キリスト教社会では常に差別され続けます。中世ヨーロッパでは、「ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけたのだ」と言われ、迫害されたのです。

20世紀に入り、ナチス・ドイツが多数のユダヤ人を殺戮したこと、「アンネの日記」が世界中で出版されたこと、こうしたことでユダヤ人に対して同情が集まります。そしてユダヤ人自身も、「迫害を受けるのは、自分たちの国を持っていなからだ。自分たちの国をもう一度つくろう」と考えるようになります。そして、聖典に約束されている「カナンの地=パレスチナ」に戻ろうという運動が活発となるのです。これを「シオニズム運動」と言います。

しかし、パレスチナには、既にイスラム教徒のアラブ人が多数居住していたのです。そのため、国際連合で、「パレスチナ分割決議」が1947年11月29日に採択されることになります。この決議案では「イギリスの委任統治を終わらせアラブ人とユダヤ人の国家を創出し、エルサレムを特別な都市とすること」が謳われていました。エルサレムは国連の管理下に置く、ということだったのです。しかし、アラブ諸国ならびにパレスチナのアラブ人指導者たちはこの分割案を拒絶します。

そして、1948年5月14日の午後、イギリスの委任統治が終了するその日に合わせてイスラエルの独立が宣言されますが、アラブ諸国はこの宣言を踏まえた上でパレスチナに侵攻し、翌5月15日、第一次中東戦争が始まります。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

本来「イスラム原理主義」とは、「本来のイスラムの教えに基づいた生活をしよう」と呼びかけるもので、暴力的なものではないようです。イスラム法を厳格に実践して、社会を正していこうとするイスラム復興主義というべきもののようですね。

ところが、このイスラム復興主義の運動に携わる人たちの一部に、「暴力的な手段、過激な手段に訴えてでもイスラムの理想を実現すべきである」と考えて実際にそうしてしまった人たちがいたことが問題なのですね。

「ジハード」とは「イスラムのために努力する」という意味なのだそうです。イスラムの教えを守るのがジハードなのですね。だから例えば、「一日5回のお祈りのために早起きする」、「断食の月は昼ご飯は食べないでがまんする」、「異教徒がイスラムの土地に攻めてきたら、イスラムの土地を守るために、防衛という意味で戦う」、こうしたことはすべてジハードなのだそうです。

ところが「コーラン」には「こちらから不義をしかけてはいけない」という一節があるそうです。つまりコーランの教えに忠実であろうとする限りは、こちらから攻めてはいけないのです。あくまで「防衛のためだけ」なら戦っていい、ということなんですね。

イスラム教は、本来、平和を求める宗教なのだということです。でも知識として教えてもらわないと、イスラム教=過激で恐い、と思ってしまいますよね。

(つづく)

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イスラム教徒の中でアラブ人ではない、という人たちの一例として、「イラン人」を挙げることができます。イラン人とはペルシャ人であって、ペルシャ語を使用して生活しています。なお、現在のペルシャ語にはずいぶんアラビア語が入ってはいるようです。

イラン人は自国の歴史にプライドを持っており、他のアラブ諸国とは折り合いが悪いようです。宗派の上でもイランではシーア派が力を持っており(国民の90パーセントがシーア派)、中東地域でもイランだけが孤立することが多いようです。

イスラム教はエジプトでも中心となっている宗教ですが(国民の90パーセントがイスラム教スンニ派)、アラブ人という点も共通しているにもかかわらず、アラビア半島に位置するサウジアラビアのことを内心では蔑視しているのではないか、という意見もあります。

サウジアラビア国内には、ムハンマドが生まれた都市メッカがあります。また、ムハンマドが布教を始めた街メジナもあります。したがってサウジアラビアの国民の多くは、この二つの街が自分の国に存在することを大変誇りに思っているようです。

サウジアラビアの特徴とは、イスラム教スンニ派の中でも特に厳格にコーランとハディースを守るという「ワッハーブ派」の教えを国教にしている点にあります。要するに、ワッハーブ派というのはイスラム教原理主義の中の一つです。

サウジアラビアについては、あまり良い印象が持てないのですが、というのも、まず男女の分離が徹底していて、はっきりと男尊女卑が定められているからです。女性は外で働くことができないし、家族以外の男性に姿を見せるのも不可です。女性が外出する時には、全身をアバヤというマントで覆って隠し、顔はニカブというベールで隠します。なおかつ男性が保護者として同伴しない限り外には出られないのです(これらのルールを破ると即座に宗教警察に逮捕されます)。

さらに言うなら、サウジアラビアには法律も国会もありません。コーランが法律なのです。そして国民が選挙で自分たちの代表を選ぶことも当然ありません。

なお、サウジアラビアは観光客の受け入れはしていません。また、サウジアラビアは世界最大の石油輸出国です。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 エジプト イラン サウジアラビア

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イスラム教の国の中には、厳しい戒律をきちんと守っている国もあれば、女性が顔を堂々と出してジーンズをはいて歩いているような国もありますね。この違いは何が原因となって起きているのでしょうか。

イスラム教では偶像を拝むことは禁止されているので、「~の肖像画」や「○○の像」といったものが公然と飾られていることは無いだろうと思って調べてみると、イランの首都テヘランなどではどこにでもホメイニ師の肖像画があるのだそうです。よく調べてみると、イランはイスラム教シーア派の国なんですね。

一方で、例えばサウジアラビアは、「スンニ派」の国のひとつです。スンニ派の中でもサウジアラビアは、特に厳格にイスラム法を守り、男尊女卑が徹底している(ワッハーブ派)ということです。ですからサウジアラビアでは、映画までもが偶像崇拝に当たるとして禁止されており、映画館も劇場も無いのです。

イスラム教の中に、大きく分けてこの二つの宗派、シーア派とスンニ派があり、シーア派はイスラム教徒のおよそ15パーセントを占める少数派、スンニ派は85パーセントを占める多数派、ということなんですね。

ムハンマド達はイスラム教徒の国として、アラビア半島を拠点としてイスラム共同体をつくり、その規模はだんだんと大きくなっていくのですが、預言者ムハンマドが亡くなった後、イスラム国家の指導者として「カリフ」を選んでイスラム国の運営が続けられます。ムハンマドが亡くなった後の4人の指導者を「正統カリフ」というのですが、初代正統カリフにはアブー・バクル、二代目はウマル、三代目にはウスマーン、四代目にはアリー、こうした人達が選ばれます。そして、初代を除いて、その後の三人はすべて、暗殺されたのです。四代目のアリーが暗殺された後、ムアーウィヤという人物がイスラム教徒の帝国の一つである「ウマイヤ朝」を建国します。これが歴史上最初のイスラム王朝の始まりです。

正統カリフ四代目のアリーはムハンマドのいとこで、かつムハンマドの娘と結婚していたのですが、「アリーこそがムハンマドの正当な後継者であって他のカリフを認めることはできない」と主張する集団が存在しました。このグループが「アリーの党派」と名乗り、後に「シーア派」と呼ばれるようになります。

これに対して、血筋に関係無くハディースを通じてイスラムの慣習を守っていくのならそれでよい、という考え方をしたのが「スンニ派」だということです。

四代目の正統カリフであるアリーの息子がサザン朝ペルシャの王の娘と結婚したため、シーア派はペルシャに広まります。このペルシャが、今のイランなのです。そこでシーア派は主にイランで支持されているのです。

ウマイヤ朝は、その版図(はんと)を拡大し続け、東ローマ帝国の領土の大部分、そして北アフリカまでもその支配下に置くことになります。その結果として、イラン人やトルコ人、そしてベルベル人など「アラブ人ではない」イスラム教徒が誕生することになるのです。

(つづく)

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イスラム教とキリスト教の争いと言えば、やはりまず「十字軍」を思い起こす人が多いでしょう。

十字軍とは、1096年から以後約200年間(日本では、摂政藤原道長が1027年に没し、その子の関白藤原頼通が1052年、宇治殿を寺院に改め、翌1053年に平等院鳳凰堂を建立している。1083年から1087年にかけて、源義家が後三年の役を起こす。この源義家の子が源義親、その子が源為義、その子が源義朝、さらにその子が源頼朝)、断続的に繰り返して行われた軍事行動のことを言います。遠征軍に対しては、何人かのローマ教皇によって認可が与えられていたのです。

1095年、ビザンチン帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスは、ローマ教皇ウルバヌス2世に使節を送り、移住しながらアナトリアから西進していたトルコとの間で起きている衝突に対する軍事的援助を要請したのです。ローマ教皇ウルバヌス2世はこれに応えてキリスト教徒達に遠征軍に参加するよう呼びかけたのですが、これが後に第一回十字軍として知られるようになったのです。

その後、十字軍は合わせて8回派遣されたのですが、キリスト教勢力が勝利したのは最初の一回だけであり、残りはすべてイスラム教勢力の勝利に終わっています。また、1244年にイスラエルがイスラム教徒に攻撃されて陥落した後は、20世紀までずっとイスラム教徒がイスラエルを支配することになります。

このエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの宗教の聖地なのですが、その理由は、次のようないわれによります。アブラハムが神様から試されて、「本当におまえが神のことを信じているなら、わが子(長男のイサクのこと)を私に捧げることができるか」と問われた時、アブラハムは苦悩するものの結局は息子を連れて丘の上まで来て、息子を殺そうとします。その時に「お前の信仰心はわかったから、もうその子を殺さなくてもよい」という声が聞こえ、殺すのを止めます。この丘がユダヤ人の聖地となって神殿が建てられたのです。イエスはユダヤ教徒だったので、この神殿まで来て布教をしていたのですが、その結果神殿のすぐ近くのゴルゴダの丘で十字架にかけられます。現在、このゴルゴダの丘があったとされる場所にイエスの墓が造られ、聖墳墓教会とされたため、この教会がキリスト教徒の聖地となっています。

ムハンマドはエルサレムには来たことはないのですが、「コーラン」の中に、「ムハンマドが天使に連れられて遠くの町に行き、アッラーの神、あるいは歴代の預言者たちに会って戻ってきた」という内容の部分を読んで、「エルサレムにある聖なる岩を触ってきたのに違いない」という話になって、その岩を丸い屋根で覆って「岩のドーム」と呼び、これがイスラム教の聖地となっているのです。

現在は、この3つの宗教の信者がそれぞれ、自分たちがエルサレムを管理したいと主張し対立しているということです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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現在、イスラム教は北アフリカから東南アジアのインドネシアまで広がり、イスラム教の信者数は、全世界でおよそ15億人と言われています。世界で最もムスリムが多い地域は、東南アジアであり、国ではインドネシアなのです。21世紀の現在、東京を訪れるイスラム教徒の多くは、インドネシアからの訪問者です。

日本でいう飛鳥時代の頃から、つまり7世紀頃から、イスラム教徒たちはアラビア半島から東に向けて貿易の相手を探して船出を繰り返していました。

16世紀(1501年から1600年まで。織田信長が今川義元を討ったのは1560年、室町幕府の将軍足利義昭が信長によって追放されるのは1573年のこと)に入り、1526年にはムガル帝国が成立します。この帝国は今のインドにできたイスラム王朝です。総大理石の建物であるタージ・マハルは、このムガル帝国の第5代皇帝シャー=ジャハンが王妃のために建てたお墓なのです。

インドにイスラム教が広まると、その東側のインドネシアへもイスラム教が広がっていったのです。

これまで、日本の学校教育では、イスラム教徒は異教徒に対して「右手にコーラン、左手に剣」という態度で厳しく改宗を迫った、と教えられてきましたが、検証の結果、実際にはイスラム教徒が異教徒に対して改宗を強制したことはなかったと訂正されています。税金を納めさえすれば、改宗を無理強いされることはなかったようです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

六信五行468

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ムハンマドが神から預かった言葉をアラビア語で著した本が「コーラン」です。ムハンマドは読み書きができなかったので、人々に口頭で教えて、暗記させたのです。

「コーラン」とは、「声に出してよむべきもの」という意味だそうです。

「コーラン」には114の章があります。

お祈りの時に必ず読み上げるのが第1章です。

「神はアッラーのみであり、決して違う神様を拝まない」と宣言します。「神アッラーは全世界の主であり、世界の終わりには最後の審判を行う主宰者である」と書かれているのだそうです。

「コーラン」には、アダムとイブも登場します。神に食べてはいけないと言われた「禁断の木の実」を食べてしまい、それまで住んでいた楽園を追われることになります。

「コーラン」によると、人間は2人の天使によって行動を見張られていて、その天使たちがすべての行動を記録に取っているということです。そして世界の終わりが来ると、神の前に一人ひとりが呼び出されて、「最後の審判」と呼ばれる裁判にかけられます。ここで、天使がつけていた記録帳が提出されるのです。善行が多ければ天国に行くことができる。悪行のほうが多いなら地獄へ行くのです。

イスラム教と言えば「一夫多妻制」を思い浮かべる人も多いでしょう。コーランには4人まで妻を娶ることができると書いてあるわけですが、これは背景として、この啓示が下ろされた当時、夫を戦争で失った未亡人、父親を戦争で亡くした子供たちがたくさん存在していた、という事情があったのです。そうした未亡人や子供たちを救うための手段として、「未亡人と結婚して、その子供も育ててあげなさい」という意味があったのですね。

その他、日常生活で守るべきことの中に、「豚肉を食べてはいけない」、「酒を飲んではいけない」、「偶像を拝んではならない」、「女性は美しいところを人前で見せてはいけない」といった決まりがあります。

イスラム教徒は天国へ行くために「アッラー」、「天使」、「経典」、「預言者」、「来世」、「天命」の六つを信じ、「信仰告白」、「礼拝」、「喜捨」、「断食」、「巡礼」を実践しなければなりません。これらをまとめて「六信五行」というのだそうです。

(つづく)

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6世紀から7世紀(501年~700年)の頃は、アラビア半島では多神教が崇敬されており、カーバ神殿には多数の偶像が祀られていました。そうしたアラビア半島でムハンマドは唯一神を説いたため、メッカの大商人たちから迫害されることになってしまいます。

結局メッカにはいられなくなり、メディナに移ってイスラム教の布教活動を続けます。このメディナへの移住を「ヒジュラ」と言います。これは西暦622年のことです。

622年というと、日本の大化の改新(645年)よりも23年前のことになるのですが、聖徳太子が亡くなったのがこの622年なのですね。ちなみに冠位十二階が定められたのが603年、十七条憲法が制定されたのが604年です。

ムハンマドはメディナで信者を増やした後、メッカに戻りメッカを占領します。そして異教の多神教の神殿であったカーバ神殿の偶像を全て破壊して、今のイスラム教の正殿となるカーバ神殿を完成させます。

その後ムハンマドは632年に亡くなるのですが、ムハンマドに降りた啓示を信者たちがまとめたものが「コーラン」だというわけです。

イスラム教は「人間は神の前で平等」だと説いているのですが、奴隷は例外扱いでした。奴隷は人間としては扱われなかったのです。イスラムの国家であるサウジアラビアで奴隷制度が廃止されたのは、1962(昭和37)年11月26日のことでした。戦争をして領土を拡大し、男を皆殺しにして女性と子供を奴隷にするということを繰り返してきたのですが、ここに至ってようやく奴隷制度が消滅したのです。

ムハンマドの言動は多くの人たちに目撃され、記録されました。この目撃談を集めたものが「ハディース」です。イスラム教の第二聖典ですね。第一聖典はもちろん、コーランです。

(つづく)

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tag : コーラン ハディース ワールドメイト 深見東州

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さて、イスラム教とは、唯一神である「アッラー」を信じ、神がムハンマドに対して下した「啓示」を信じる宗教だと言えます。人間は神の前では皆平等であり、神の言葉の通りの生活を送っていれば、死後、天国に行くことができるとされているのです。

イスラム教徒にとっての天国とはどんな世界かというとコーランに具体的に描写されているのですね。その内容は、72人の処女と交わることができる、酒、肉、果物を好きなだけ楽しむことができる、ということらしいです。女性が亡くなった場合は、可愛い男の子達が身の回りの世話をしてくれるそうです。

こうしたことが書かれているため、熱心に神に祈りを捧げるのだそうですが、果たしてこういうことが動機となって熱心にお祈りすることができるものなのでしょうか?

「イスラム」という言葉は、「神にすべてを委ねる」という意味なのだそうですが、皆様がご存じの通り、神にすべてを委ね過ぎても、神様は動いてくれなくなってしまうはずです。というか、まず私たちが第一歩を踏み出さないと、神様の守護が始まりませんからね。

神様に動いていただいて、病気を治していただくとか奇跡を現していただく、といったことを果たして理解してもらうことは可能なのでしょうか?

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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さて、「アッラー」というのは、アラビア語での「神」という言葉なのだそうです。

イスラム教徒がどのように考えているのかというと、最初にまず神はユダヤ人に神の言葉を教えた、次にイエスを預言者として選んで神の言葉を教えた。すると、イエスの教えを聞いた人々がイエスのことを「神」だと言い出した。

それで、神があらためてムハンマドという人間を選んで神の言葉を教えた。神様が最後に選んだ預言者がムハンマドなのだ、という理屈なのです。

そういうわけで、イスラム教徒にとっては、「旧約聖書」も「新約聖書」も聖典にはなるのですが、やはり「コーラン」が最も大切なものだと位置づけられているわけです。

ちなみにキリスト教では、二度の公会議を経て、三位一体論が調えられた結果、イエスが神の子であるということになったようです。

しかし、これはイスラム教にしてみれば、ムハンマドを神だと言うようなもので、「間違いだ」ということになるようです。

預言者とは「神の言葉を預かった人」のことです。未来のことを予知して言葉で言い表す人のことではありません。

イスラム教が成立するより以前は、アラブでも多神教が信仰されていました。6世紀(501年~600年)の頃、メッカは商業と金融の中心地となっていました。この頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、ササン朝ペルシア(イラン人の王国)と戦争を繰り返していたためシルクロードが使えず、隊商が戦地を避けてメッカを経由したため、メッカが繁栄したのです。ペルシアはイラン人の国、というかペルシア人の国であってアラブ人の国ではないのですが、この点が後になって重要になってきます。

ともあれ、ムハンマドはこのメッカに生まれたのですが、25歳でハディージャという40歳の未亡人と結婚します。この未亡人は裕福で、結婚後、ムハンマドも行商で大儲けします。

その後、40代になってムハンマドは瞑想にふけるようになります。ある時、洞穴で彼が瞑想していると、ガブリエル天使が出現し、ムハンマドに啓示を与え始めたのです。

それ以来、ムハンマドは神から下された言葉を周囲の人々に伝えるようになります。この、ムハンマドが神から預かった言葉を人々に伝え始めたことが、イスラム教の始まりになるのです。

こうしてムハンマドは最後の預言者として位置づけられることになるのですが、コーランには25人の人物が預言者として記されているそうです。そして、その中でもノア、アブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドの5人を五大預言者というそうです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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ユダヤ教の選民思想を批判したのがイエス・キリストだったのですね。気がついてみるとキリスト教の教会が家の近くにあったりして、あの十字架のネックレスがなんとなくわくわくさせるようなものに見えたりして、キリスト教がなんとなく身近ではあったのですが、いろいろと
調べてみると、実際には知らないことがわんさかありました。虚心坦懐にいろいろと再確認してみたいと思いました。

イエスは「すべての人間はみんな平等で、神を信じる者は誰でも救われる」と説いたようです(しかし、後にキリスト教徒がやったことの中には、この教えとはずいぶん矛盾したこともたくさんあると思うのですが)。

このキリスト、という言葉は「メシア」をギリシア語に訳した言葉なんだそうです。イエス・キリスト、という言い方を人の名前だと思っている人もいるが、そうではないんですね(私も人の名前だと思っていました)。イエスは捕らえられ、ゴルゴダの丘で十字架にはりつけにされ、処刑されたのだと考えられています。

イエスは死後、復活し、信者たちに教えを説いたとされています。そして、「イエスこそ救世主である」と考える人たちがキリスト教徒と呼ばれるようになったようです。

イエスの教えは弟子たちがまとめました。それが「新約聖書」です。キリスト教をつくったのはイエス自身ではなく、弟子たちだったのです。

ユダヤ教とキリスト教の教えでは、人間は死後もその身は亡びることなく、地中で眠り続け、「世界の終わりの日」が来ると、眠りから目覚め、最後の審判を受けるのだそうです。そして天国もしくは地獄のいずれかに行くことになる、というのですが、これを復活、と呼んでいるのですね。この復活の日のために、肉体を燃やすことなく、すなわち「火葬」にしないで、「土葬」にしているということなのです。からだがないと天国に行くことができなくなる、と考えているようです。イスラム教でも同じだということです。

(つづく)

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以前はイスラム教を始めた予言者のことを「マホメット」と言っていました。最近は「ムハンマド」と呼ぶみたいですね。つまりムハンマド=マホメット、ということです。「コーラン」も、アラビア語での音により忠実に書くなら、「クルアーン」となるようです。

イスラム教の聖典である「コーラン」には、キリスト教の「イエス」も、旧約聖書の「モーセ」も出てくるんですね。読んだことがないので知りませんでした。

そして、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神様は同じなんですね。キリスト教の元はユダヤ教。イスラム教の元はユダヤ教とキリスト教。すべて一神教、つまり神様はその一体しか存在しない、という考え方で、唯一神を信じている、ということなんですね。

そして、これも初めて知ったことなのですが、イスラム教はキリスト教よりもユダヤ教に似ているのだそうです。

紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて、イスラエルの民衆はエジプトに移住していたのですが、徐々にエジプト人から圧迫されるようになります。そこで、モーゼがラエルの民衆を率いてエジプトから脱出することになります(出エジプト)。この脱出のときに、モーゼが持っていた杖を海に向かってふりかざすと海が2つに割れて、そこをイスラエルの民衆が渡ったという例の有名な話があったということです。そして、このモーゼの一行がカナンに戻る途中、モーゼがシナイ山に入り、神から十戒を授かるのです。その後、ユダヤ人は現在のエルサレムがある土地に王国をつくります。このイスラエル王国の最盛期の王様が、ダビデ王とソロモン王なのです。英語ではDavidとSolomonです。ソロモン王が死ぬと、ユダヤ王国の民はバビロンに連行され、奴隷にされます。これをバビロン捕囚といいます。こうしたユダヤ人の歴史の中から成立したのがユダヤ教なのですが、その教えの中に、選民思想(神はユダヤ人だけを救ってくれる)があり、この世の終わりにメシア(救世主)が現れ、ユダヤ人だけが救われる、と考えているのです。

ユダヤ教の戒律は厳格で、十戒のほかに「律法の書(=トーラー)」には613の戒律があるそうです。

イエス・キリストはユダヤ教徒だったのですが、「ユダヤ人しか救われない」というユダヤ教を批判し、改革運動を始めたのです。

まずユダヤ教まで戻って、そこから順に理解していこうということで整理してみたのですが、こういう知識を再確認した上で秘鍵開示会を見ていくといっそう納得がいくのではないかと思います。

(つづく)

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2020年の東京五輪・パラリンピックの開催が決まり、ムスリム(=イスラム教徒)が食べてもよい食品であることを示す「ハラル認証」を取得する食品会社が増えているということなんですね。最近は東南アジアからの観光客が増えているということなのですが、東南アジアでもインドネシアが実は世界最大のイスラム人口を抱える国なのです。マレーシアもイスラム教の国ですね。そしてこの東南アジアからの観光客の増加を追い風となって、土産物のお菓子やしょうゆ、みそなどの調味料まで、認証マークを貼った食品が登場しているそうです。

そして、イスラム教徒が食べてよい食品を日本国内だけではなく、海外に輸出して積極的に売っていこうという動きもでてきているようです。例えば、アルコールが含まれない味噌などを製造して輸出する、という動きがあるようです。

このように、イスラム教徒の人達がどんどん日本を訪れるようになり、イスラム教徒向けの食品や食事が日本国内で準備されるようになり、さらには輸出も行われ始めているにもかかわらず、私達はあまりイスラム教やイスラム教徒のことを知っているとは言えません。

そこで表面的ではありますが、ざっと調べてみたのですが、以下にその要点を簡略にまとめてみました。

「イスラム教は一神教であり、聖書の預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐ宗教である。イスラム教徒は、コーランの内容について、その一言一句すべてが神(=アッラー)の言葉であると考えている。そしてイスラム教徒の大部分は、コーランの中の教えや規範の一つひとつが、神が使わした最後の預言者であるムハンマドによるものだと考えている。イスラム教徒のことを『ムスリム(英語ではマズリム)』と呼ぶ。

イスラム教徒は、神は唯一にして他に比較対照するものが無い存在であり、そして自分達イスラム教徒が存在するのは、神を崇拝するためであると考えている。イスラム教徒はまた、イスラム教のことを、原始時代から存在し、かつ以前からアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエス・キリストといった預言者達によって明かされてきた、根源的な宗教が発展して完全無欠で普遍的な形を取った結果今のイスラム教になったと考えている。イスラム教徒は、過去の神託や啓示は時を経るうちに部分的に誤って解釈されてきたのだと主張している。それにもかかわらず、コーランによると、古い聖典も最大限の敬意をもって取り扱うことが義務だとされている。」

ということなんですが、どうやら「多神教がより発展して一神教となるのだが、その一神教とはイスラム教のことである」というふうに考えられているようです。

日本の神道は、まさに多神教なんですね。山川草木すべての存在に神様を見出すのが日本の神道なのです。だから八百万の神々、というわけですね。

(つづく)

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