ワンクリック、プリーズね!


最新トラックバック


プロフィール

ノリコ

Author:ノリコ
私の尊敬する深見東州先生についてご紹介いたします。


最新記事


最新コメント


カテゴリ


月別アーカイブ


FC2カウンター


カレンダー

01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -

ブロとも一覧


ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

ものには言い方というのがありますよね。昨日ロッテリアで休憩していると、まだギリギリ20代だと思われる女性二人が着席するなり憤慨しながら、職場の上司のことを話し始めたのが聞こえてきました。「あんな言い方する必要ないでしょ?」(`へ´)、「そうよ、ねえ~」(*`Д´*)、という感じでしたが、確かに同じことを言うのでも、言い方でずいぶん印象が違ってきたりしますよね。

御神業の場でのものの言い方も、やっぱり大丈夫な言い方とやめたほうがいい言い方とが、あるみたいですね。

「権謀術数的な言葉遣いをすると、
 その瞬間に動物霊が身に現れる。
 想念界がそこに陥るからである。」
(御神示全集、p.442)


「こういうふうにして、こうなったのである」を、
自慢げに言うと天狗が出てくる。

「こうくるところを、このようにしたのです」を、
自分の智略で成功したかのように言うと、きつねが出てくる。

「このような心でいるのを、自分はこう見たのです」と、
相手の腹をいかにも自分の腹で見抜いたかのように言うと、
たぬきが出てくる。
(御神示全集、p.87)

素朴で素直が神一厘、と何度も深見東州先生はおっしゃっていますね。何か難しそうなことを言えるのが偉いと思う人もいるようですが、

「むつかしい顔をしていると
 むつかしいことがやってきて
 簡単なことがわからなくなる。
 人と神が一つであらば天真爛漫であり
 ひとつひとつが生き生きとしている。
 日本の魂はこれをもって徳とし、
 人を化する働きをもつなり。
 太平の世とは大和の心の花咲く世であり、
 神のことを喜び楽しむ世である。
 それが足らぬ故
 今までの競いやけんかがあったのである。
 あらそいのなくなる世とは、
 楽天のむねのぼたんをあけ放つ世なり。
 人も神も天真爛漫のものがより本物である。
 神も人もすばらしいものがむつかしいものや、
 あたまをひねる困難なものでないことを
 知ったのが悟りである。」
(御神示全集、p.218)

とあるように、何事かを大げさに難しそうに言うのが偉いということでは全くない、ということなんですね。

大げさなものの言い方に振り回されないようにしましょう。いかにもそれらしいものの言い方をする人がいたら、そんな言い方をすることそれ自体が神様の守護がないことの現れかもしれないと気づいて自分を守らなければいけません。

「正しいことはむつかしくない。
 自分が正しいと思えば批判の心が出ずるなり。」
(御神示全集、p.138)

「むつかしいことはない。
 自分のことを忘れ、
 人のことを思いやる人に
 神は愛をさずくるものなり。」
(御神示全集、p.184)

とあるように、理屈を前に出すとずれてきてしまうのですね。そうではなく、愛を前に出さないといけないのです。やっぱり「素朴で素直が神一厘」なのだと思います。

(つづく)

次の記事を読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

ブログランキング
ブログランキング
スポンサーサイト

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

深見東州先生は、世界中に愛をワールドメイトのリーダーです。また、半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしていらっしゃいます。

それでは、有形有限の存在である私たちが、無形無限の神に向かっていくことはできないのでしょうか。

もちろん、そこには向い方というものがあるのです。

無形なるものを前にして、その無形なるものに向かうには、こちらの、自分の中の無形の部分で無形なものを感じ、真に、善に、永遠に、広く、高く、深く、繊細に、濃く、無限に向けて進歩発展していったらいいのですよ、と深見東州先生はおっしゃっています。

そして、無限に向かって進歩発展していく過程で、目の前に現れる神とは、宇宙森羅万象を統率される絶対神のごく一部が具体的に現れた顕現神であるとわかった上で、謙虚にこれを味わい、楽しみ、進歩発展と幸せのために活用していけばいいんですね。

神様から見たら、人間とは有形有限であるとともに、永遠に未完成であり、永遠に不完全なものです。それをはっきり認識して、素直で謙虚で、しかもひとつわかっては味わい楽しみ、ひとつ実感して感動しては、味わい楽しんで幸せであれば、それでいいのです。

絶対者であられる神様は、人間がこのようにして絶えず進歩発展し、常に幸福であることを何よりも望んでおられるようです。

頭で知的に理解して、神とはこんなもの、私の出会った神とはこうだ、という人物よりも、例えば少年ジャンプを夢中になって読み、主人公の生き様に感動して目を輝かせている少年のほうが神様により好まれる存在なのです。

毎日毎日、人生と道を完結させ、進歩と発展の余地を残しておけば、もうそれ以上考える必要はない。森羅万象、人事百般、すべてから学び続け、それを神様の一部として会得し、感謝感動して、幸せに日々を生きているなら、それこそがまさに神様の御心にかなう素晴らしい人生だということです。

続きを読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

ブログランキング
ブログランキング

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 有形 有限 無形 無限

ワールドメイトとは、深見東州先生をリーダーとするグループです。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしていらっしゃいます。

絶対神は無限絶対無始無終なので、だから、どんなに努力しても、これを知ったり体得することはできないのです。その限りでは、神と人の間には永遠の溝があると言えます。

でも、神は人に分かりやすくするために、無限極から有限の仮の姿となってお出ましになるわけですね。これが、神霊とか「顕現神」とか呼ばれるものです。この神霊や顕現神から、知ることもできるし、体得もできるものに切り替わるのです。

旧約聖書の中に、アダムが神と語ったり、モーゼがヤーウェと対話したりするところがありますが、あのヤーウェの神は絶対神ではなく、絶対的なスの権限を与えられた顕現神なのです。あるいは、日本の天照大御神や国常立命、また、守護神などもすべて顕現神だと言えます。

見えた聞こえたという場合の神様というのもすべて顕現神のことで、絶対神のことではありません。無形、無限の絶対神が光りや霊気を放ったり声を出したりすることなど絶対にないからです。

したがって、神人合一という場合の神様も、顕現神のことを言っているのですね。無限極から仮の姿をとっりて有限の世界に現れた顕現神と一体になって、そこを基点として、さらに高く、広く、大きく、自らの御魂と霊性と実力とを発展させ、絶対神に無限に近づいていこうというのが、神人合一の道なのです。

自分が見たり聞いたりした神様、これは、誰であっても一人ひとりに相応しく現れ出た神様なのであり、人に見えたり聞こえたりする以上、有限の相対神であることは間違いありません。したがって、「自分が見た神こそ絶対である」という主張が間違っているものだと分かります。

人間が感知できる神は顕現神であり、だからどんなに真実の神に思えたとしても、それは絶対神のごくごく一部でしかないのです。

この三次元の相対世界に起居している限り、私たちの出会う神とはすべて相対神でしかなく、私たちが神様のことを知ろうとすると、まさに「群盲象を撫でる」ということになってしまうのです。そして、一人ひとりの霊能者がさも自分が一番正しいかのように主張するのですが、一人ひとりの霊能者とはまさに「群盲」の中の一人でしかないと言えます。それぞれが正しく真実の一部を写したり告げたりはしているものの、決して全ての真実を語っていることにはならないのです。、

続きを読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

ブログランキング
ブログランキング

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 絶対神 霊能者

深見東州先生は、世界中に愛をワールドメイトのリーダーです。また、半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしていらっしゃいます。

ちょっと抹香くさいと思われる方もあるかと存じますが、ここで絶対神と顕現神という考え方というか、存在について、お話ししておきたいと思います。

結論から申し上げますと、宇宙創造のス神とは、真を極めれば科学や法、理に通じ、善を
極めれば宗教や道徳、倫理に通じ、美を極めれば芸術に通じるものなんですね。

要するに、「真・善・美」の三つが宇宙創造のス神の一部なわけです。そして、その真・善・美の広がりというのはあまりに広大無辺であり、人間の知恵なんかをはるかに越えているわけです。

無限絶対無始無終、至大至小、至剛至柔であり、全知全能を内包しておられるのが宇宙創造のス神なのです。

だから、人間がその頭脳や知性で完全に理解したり、体得できるものではないんですね。たかだか垣間見た霊界や神仏の様子が、たとえ本当のものだとしても、どれほどのことだと言えるでしょうか。神様から見たら、チリ一つにも足りないほどの、わずかな部分でしかないわけです。

そう考えてみると、私こそが皆さんを救う霊能者だ!といばっている人がどの程度の人物か分かるというものですよね。

次のような言葉があります。

郡盲象を撫でる
(ぐんもうぞうをなでる)

この言葉の意味とは、

「多くの盲人が象をなでてみて、各々が、その手にふれた部分だけで象のことを云々(うんぬん)するように、凡人は大人物や大事業の一部分しかつかめず、大局からの見方はできないということのたとえ。「北本涅槃経」巻三二、「菩薩処胎経」巻三などに見えるたとえ。衆盲象を模す。」

と辞書にあるのですが、

人間が本当の神を理解しようとする時には、同じようなことが起きているのです。

神様というものが、有形のもので有限のものなら、そのうち真髄や真理、真実の神様というものに到達できるかもしれません。

しかし、実際には、本当の神様というものは、無形かつ無限なので、有形で有限の人間がどんなに知覚力を使ってがんばっても、絶対神のすべてをとらえることはできないのです。

続きを読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

ブログランキング
ブログランキング

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトとは、深見東州先生をリーダーとするグループです。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしていらっしゃいます。

形あるものはすべて、無形の真髄を自分で体得して、実感するためのきっかけなんだというお話しを前回したわけですが、今回はもう一つの誤解についてお話ししてみます。

よくあるもう一つの、真髄についての勘違いとは、「真髄とは到達するものだ」という意見です。

しかしこれは間違いなのです。真髄とは到達すべきものではありません。

結論を先に言いますと、真髄とはこの世に生まれる以前から、私たち一人ひとりの中にすでに存在しているもので、ただ、自分ではそれを分からないだけのことなのです。

実は、生まれつき私たちに内在している真髄は、私たちが日頃見たり聞いたりする何かに触れて初めて、出てくるものなのです。外からの刺激に共鳴して出てくるものなのです。

たとえば、「君に読む物語」っていう映画があったと思いますが、私はこの映画がすごく好きなんですけど、ああいう映画を見ている時に、次はどうなるかなー、きっとこうなるんじゃないかなーってワクワクしながら見ている時に、私の中に存在している真髄が共鳴して出てくるわけです。

つまり、真髄とは、御魂の世界に没入した時の感触って言うことができるんですね。

時を忘れて映画や小説に没入して、我を忘れてハラハラドキドキしているその瞬間、瞬間に真髄が浮き出ている、ということなのです。

真髄とは到達するものではないんですね。

毎回、胸を躍らせて読むマンガや小説、お話しなんかを読むその時に、私たちの魂が感動で喜んでいるわけです。それが実は真髄を体験している、ということなんですね。信仰と神の道も同じで、毎回浮き浮き、ワクワクしながら向かうというのが本当の向い方なのです。

とにかく真髄、本質奥義というものは、到達するものではなくて、私たち一人ひとりが没我の境地の一瞬一瞬にあって、感動しながら楽しみ、学び、向上し続けている時の、自分自身の中に活き活きと生きているんだ、ということをご理解いただければと思うのです。

続きを読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

ブログランキング
ブログランキング

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 本質 真髄 奥義

深見東州先生は、世界中に愛をワールドメイトのリーダーです。また、半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしていらっしゃいます。

本物の神様っているの?本物の宗教ってあるの?本当の結婚ってあるの?こういう疑問に行き当たっている方も少なくないと思います。いろんな相手とつきあってみて、どんなに本を読んでも分からないままですよね。

誰でも、自分が追求している物事の「本質、奥義、極意」を極めたいと一度は思いますよね。そして、誰もがやる間違いがあって、これにまず気づかないと、間違いを何度もくり返してしまうのです。

それはどんな間違いかと言うと「真髄とはすなわち、形に出された説明や教えの中にあるものだ」と考えてしまうことです。これが根本的な勘違いなのです。

自分のさまよう心を納得させ、いいかげんなところで落ち着きたい。そして、以後、決して迷わないためには、何に気づかないといけないのでしょうか?

答えはこうです。「物事の本質とは、形のないもの。真髄とは無形のもの。そして、真髄とは体得して、知性ではないところで実感するもの」

この点を理屈抜きに実感できていると、物事の大事な点が理屈抜きに分かるようになります。

つまり、考えて分かっても意味がないこと=体得して知性ではないところで実感するもの、なので、どんなに理屈が上手に言えても何も得られないのです。何も分かっていないのです。どんなに考えても「悟る」ことはできないのです。

絵画の本質とは何なのか、これが知りたいなら、頭でいろいろと考えたりしないで、とにかく最初は絵をどんどん見ていけばいいのです。理屈を越えた魂の感動を感じ取ることができるでしょうか。そして同時に、自分でも実際に絵筆を取って画いてみればいいのです。そして、絵画をどんどん見て味わった感動に向かって、自分も向上していけばいいのです。

芸術というものはすべて、知的に考えるものではなく、体験し、体得し、実感するものですね。

そうすると、例えば、美術大学や、絵の先生というものは、一日一日と向上していく自分にとって、本質をつかむためのきっかけでしかないと分かります。そして同時に、物事の本質をつかむための自分の進歩というものを大切に考えるようになるので、きっかけとなってくれる美大の授業や絵の先生とのおつきあいも大切にするようになるのです。

これが本来あるべき姿勢のはずなんですが、「物事の真髄が有形なものの中にあると、間違って考えてしまっているために」絵画の真髄が美術大学で分かると思い込んでしまったり、美術の本に書いてあると勘違いしてしまったり、絵の先生が教えてくれると思ってしまいます。こうして間違って思い込むから、分からなくなってしまうのです。

宗教についても同様で、世界中のすべての宗教団体と師を巡ってみても、真髄にはめぐり会えることはないのです。また、人や団体はすべて有形のもの。それ故、矛盾のまったくない組織や師、書物が存在することはあり得ないのです。形あるものはすべて、無形の真髄を自分自身が体得し、実感するための媒介に過ぎないからです。

ですから、どこからでも吸収できる自分、何からでも体得できる自分、こういう自分を確立することが大切なのです。

続きを読む→ここをクリック

↓ブログランキングの応援クリック↓
 よろしくお願いします

ブログランキング
ブログランキング

tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

 | ホーム |