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Author:ノリコ
私の尊敬する深見東州先生についてご紹介いたします。


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ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

お手綱を張り巡らせて、「お手綱爆運神事!」、行われましたね。豊雲野之大神様の御神魂が降臨され、素晴らしい神事となりました。

「人を救えよ、人を導けよ、人のために役立つ人間になれよ」

「そういう人間にこそ、神様のお手綱がやってきて導かれ、この神様のお手綱がやってきて究極の地獄から救われ、この神様のお手綱がやってきて天命を果たし天寿を全うでき、命が授かる」

「人の役に立つ人間になれよ、野口英世がそれを体現した人、そういう者にこそ会津磐梯山の手綱が降りてきて、しっかりと導いてあげるからね。危うい時には救ってあげるからね。そしてそういう人には天命が全うできるようになり、寿命を与えて、志を遂げられるよう導いてあげるからね」

「この志を持たないとお手綱も意味がない。人のために役立つ自分であろうと努力せよ。そういう生き方をする者にこそ、この手綱は天から降りてくる。この志が無い人間にはお手綱が来ても素通りしていくだけ。そういう志を持つ人だけが、お手綱の神徳を授かることができる。この志がある上は、豊雲野之大神、磐梯山、北極神界から常にお手綱が降りてきて導いてやろう。苦境から救い天命全うを可能ならして、天寿を与えてやろう。命を長らえるように導いてやるぞ。その志をいかなる時にはも持ち続けよ。仕事がどんなに忙しくても、どんなに家族が円満で楽しい日々であっても、嫁や子供、自分の生活に汲々(※一つのことに心を奪われ、他を顧みるゆとりがないさま)とせずに、人を救おうとせよ、人の役に立とうとせよ。人の役に立つべく自分を磨こうとせよ。そういう者にこそこのお手綱が授かる。北極神界のお手綱は、そういう人だけが授かる。全ての人が授かるわけではない。利他の心を持たない人間に、お手綱が降りてきても受け取れるわけがない。受け取った者は必ず救ってやるからな。その志を持つ限り必ず救ってやるからな。我欲に生きず、楽しみに生きず、家族や仕事に生きず、それらは当然あってもやっぱり人を救い人のために役に立ちそういう自分であろうという精進を怠るなよ」

神様は繰り返し同じことをおっしゃっていましたね。眠たかったけど、とっても感動しました。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

思い出す、思い浮かべる、ということがあるわけですが、それでは、そうした行為はどういう意味を持つのでしょうか。

思い出す時にせよ思い浮かべる時にせよ、何を想い描いているのかというと、「相手の顔かたち、姿、それからなんとなく感じている印象」ですね。こちらが強く相手のことを想い描くと、それは、実は自分の分魂が相手に飛んでいっていることになるのです。分魂が飛んでいくということはすなわちこちらから生霊を飛ばして相手にくっつけていることを意味します。それほど強くない場合であっても、想い出して電話や返答を期待して待っているという状態であれば、十分に念波が届いていますので、それはすなわち霊的なつながりが確立する、つまり霊線が結ばれることを意味します。

霊的なつながりができあがれば、こちらからの霊的な影響が先方に届くこともあれば、逆に、向こうから来る霊的な影響を受けることも考えられるのです。

したがって、自分が、「良き対象、即ちすがすがしいもの、美しくて神界や天国界を表しているもの、あるいは神様そのもの」を想い描いて、こうした対象に向けて霊線が結ばれるように思念を働かせるなら、おそらくそうした良き対象からの良き霊的影響を受けることができるでしょう。

神仏に対して祈りを捧げるということは、即ち神仏を相手に霊線を積極的に結ぶということに他ならず、だからこそ、正しい、神います神社で熱心に正しい祈りを捧げることで神徳をいただくことができる結果になるわけです。

それでは、思い浮かべる対象が悪しきものであればどうなるのでしょうか。

単刀直入に言うなら、それはすなわち悪影響を受けることに他なりません。「すがすがしくないもの、美しくないもの、下品で汚らしいもの、普通の感覚では嫌悪感を催すもの」を思い浮かべるということは、そうしたものとの間に霊線が結ばれて、自分に向けてそうしたものがもっている霊的世界が影響を与えることになるわけです。

知性と観念が先に立って、どんな価値観やどんなに屁理屈に見えることにもひとつひとつ意義がある、と考えている人の場合、素直な「感性」が鈍麻(どんま=感覚がにぶくなること)している場合があり、そのままに感覚的に良し悪しを判断できないことがあります。ところが、理屈は立たないながらも素朴に素直にいい感じ・悪い感じと感じることができる人の場合、人、物、書物、場所、食べ物などの良し悪しを素直に受け取れることがあって、それが神なるものの視点から見たときの良し悪しと一致していることがあるかもしれないのです。

実際に私たちは、自分が心酔している作家や画家、あるいは自分が応援している俳優、あるいは自分が惚れ込んでいる何ものか、こうした「相手」や「世界」から、たぶん、様々な霊的影響を受けているのです。

絶対的な神なる存在を理解し受け入れるということは、世の中に、必ず絶対的な良し悪しの尺度が存在しているのだということを認めることに他なりません。人間の理屈だけで言うなら、何事にも意義や意味があるかのように主張することは確かにできるのですが、神なる尺度から見た場合には、やはり本来の意味で有意義なものや事柄がある一方で、どう解釈を施してみても神様の目から見た場合には間違っているといったことが起きるでしょう。

どんなに理詰めでつきつめていっても、神なる存在を人間の理屈で証明することはできないのです。科学で神仏の存在を証明することは不可能なのです。そんなことを考える暇があるなら、家族・友人・知人・地域の人々・天皇陛下を始めとする日本国のすべての国民、こうした人々の幸せを祈って何かを為すほうがよほど尊いと言えるのではないでしょうか。なぜなら、それは神仏の尺度に則って考えた時に、最も神仏の想いに添う行いの一つになっているからです。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

深見東州先生のお話しでは、人の運命の8割まではだいたい決まっている、ということです。

深見先生が「先天の星差し替え神徳祈祷」をお取り次ぎ下さる際には、先天の先天、先天の後天、後天の先天、後天の後天、という順で星を差し替えて下さるのですが、今ここで、「8割までは決まっている」というのは後天の先天のことを言っています。

後天の先天が8割まで決まっているからこそ、後天の後天、つまり現実世界に起きることがだいたい決まってくるわけです。

「この世の物事はすべて運命が決まっている」というお話しの続きです。

以下引用------------------------------------

 天体の運動を計算した一例として「ハレー彗星」の事例があります。彗星の存在は古代から知られていましたが、その動きは惑星とは全く異なり、それがどのような軌道を描いているのかは大きな謎でした。地動説が受け容れられた後にも、彗星は単に直線を描いて太陽系を横切るとみなされたり、放物線軌道で太陽に接近して永遠に遠ざかると考えた天文学者もいました。

 ところが、ニュートンの「プリンキピア」の重力理論により、彗星も惑星と同じように、太陽の重力に束縛された楕円軌道を描くのではないかという仮説が、考え出されました。

 ニュートンの親友だった天文学者エドモンド・ハレーは、過去の彗星の観測記録を調査して、1682年に彼の観測した彗星の軌道が、1607年、1531年、1456年に観測されたものと非常に似ていることを発見しました。この彗星は、他の惑星と同じように楕円軌道を描いていますが、その軌道は非常に細長く、太陽に非常に接近した後は、土星を遙かに超えた地点まで遠ざかることが計算されました。

 そこでハレーは、1705年、この彗星はおよそ76年周期で太陽を周回するはずであり、他の惑星の重力の影響を計算したうえで、次回は1758年頃に回帰するに違いないと発表しました。

 そして1758年12月25日のクリスマス、実際にこの彗星が太陽に接近する姿が観測されたのです。ハレー自身はすでに亡くなっていましたが、彼の功績をたたえて、この彗星は「ハレー彗星」と命名されました。

 こうしてニュートン力学は、当時の科学の集大成と考えられるようになりました。ニュートン力学は、この宇宙の基本的な自然法則を明確に表現するものと考えられるようになったのです。

 そこで非常に興味深い考え方を提起したのが、ラプラスという人です。この人は「偶然とは無知の告白である」と言ったことで知られていますが、この宇宙の出来事はすべて決定されており、不確定要素の入り込む余地はないと考えたのです。

 例えば、ハレー彗星はニュートン力学にしたがって公転していますから、ある時点の軌道を計算すれば、今どの位置にあり将来いつ地球に接近するかも計算できます。同様の考え方で、日食や月食も計算できるし、球を投げればどのように落下するかも正確に計算できるのです。つまり、初期状態さえ分かれば、後はそれをニュートン力学に当てはめればよいのです。ある瞬間の状態が分かれば次の瞬間の状態が決まり、さらに次の瞬間の状態が決まる、というふうに続いていくのです。

 1814年、ラプラスは「確率の哲学的試論」において、「ある瞬間に宇宙のすべての原子の位置と速度を知ることができるならば、未来永劫にわたって宇宙がどうなるかを知ることができる」と述べています。これが「機械論的決定論」と呼ばれる考え方です。

 もちろん人間技では「ある瞬間に宇宙のすべての原子の位置と速度を知る」といったことは不可能なので、ラプラスは、人知の限界を超えた悪魔を考えました。この「ラプラスの悪魔」は、ある時点で宇宙のすべての原子の位置と速度を認識し、しかも瞬時に次の位置と速度をニュートン力学によって計算できるとするのです。

 例えば、ラプラスの悪魔が、現時点で宇宙のすべての原子の位置と速度を知ったとします。すると一秒後には宇宙はどうなっているか、悪魔はあらゆる原子の位置と速度から一秒以内に計算して、それを知ることができるというわけです。

 いわば、宇宙全体が、一度動き始めれば、後は自然法則どおりに動き続ける自動機械のようなものであり、あらゆる出来事は決定されているとみなされたのです。したがって、もしラプラスの悪魔が存在したら、森羅万象は余すところなく知り尽くされ、すべては予測通りに従うことになると、そのように考えられたのです。

引用ここまで---------------------------------

以上の内容は、高橋昌一郎著「理性の限界」(2008)からお借りしました。20世紀に入ってから発見された「不確定性原理」によれば、上記の「決定論」は否定されるということなのですが、詳細は煩雑になるので省略します。

21世紀に入った現在でも、この決定論、すなわち物事が「運命で決まっている」という考え方は根強く流布しているようです。しかし神仏の道に生きて、実在の神を掌握し、生きる神を行じる生き方をするなら、この「持って生まれた運命」を超えることができるのです。

それは、「神業を第一として、世のため人のため神様のために生きていこうという発願をして、その発願に相応しい努力をし続け、その発願に相応しい結果を出し続けていこうと念じ続け、くり返し神仏に祈り続けるなら、徐徐に命運は改まり、いつのまにか本来の命運を超えた生き方をしている自分に生まれ変わることができる」というものなのです。

鍵になるのは、「発願」、「相応しい努力を続ける」、「くり返し神仏に祈り続ける」という点ですね。

これが、深見東州先生が折りにふれておっしゃっていることであり、この生き方を実践して具現しておられるのが、深見東州先生その人なのです。

この深見東州先生の生き方こそ、ぜひとも見習いたいものですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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深見東州先生のお話しでは、人の運命の8割まではだいたい決まっている、ということです。

深見先生が「先天の星差し替え神徳祈祷」をお取り次ぎ下さる際には、先天の先天、先天の後天、後天の先天、後天の後天、という順で星を差し替えて下さるのですが、今ここで、「8割までは決まっている」というのは後天の先天のことを言っています。

後天の先天が8割まで決まっているからこそ、後天の後天、つまり現実世界に起きることがだいたい決まってくるわけです。命式を観る占いは後天の世界から先天の世界を垣間見て、それで次に何が起きるのか、これを判断しようとするものなのです。

ここで、面白い内容を紹介したいと思います。この現実世界のすべての事象は数学的に表現でき、そして、すべてそうした数式から未来を予測できることから、「この世の物事はすべて運命が決まっている」というお話しです。

以下引用------------------------------------

 近代以前は、すべての現象を自然の「神秘」によって説明していました。ところが、ルネサンス以降になると、そのような神秘主義を退けて、すべての現象に明確な「理由」を見出そうとする人々が出てきました。彼らは、あらゆる出来事を、アニミズム(=自然界のあらゆる事物に、霊魂があると信ずること。)や感情移入などではなく、他の出来事との因果関係によって理性的に説明しようとしました。彼らは、物事の本当の理由を突き詰めるべきだと考えました。そこで、自然には物事を成り立たせる普遍的な法則があるに違いないと想定し、その「自然法則」こそが、本当の理由だと考えたのです。

 このように新たな視点で世界を観察した結果、実際にさまざまな自然法則が発見されていきます。コペルニクスからガリレオに至る地動説から、ニュートンの万有引力や運動法則の発見に至るまで、近代科学は成功を収めることになります。この万有引力の法則とは「すべての二つの物体の間には、各々の質量の積に比例し、物体の間の距離の二乗に反比例する万有引力が存在する」というものです。

 こうした万有引力の法則や運動の法則によって、なぜリンゴが木から落ちるのか、なぜ人間が地球の上に立っていられるかばかりでなく、あらゆる物体間の関係が説明できるのです。月と地球の関係も、地球と太陽の関係も、さらに無数の天体現象も、これらの法則によって明確に説明できてしまうのです。

 A.D. 140年にプトレミーが「アルマゲスト」で主張した天動説によれば、宇宙の中心には地球があり、その周囲を太陽と月と惑星が回る仕組みになっています。しかし地球を含むすべての惑星が太陽の周囲を公転していると考えれば、惑星の逆行現象は、その公転速度の違いから簡単に説明できますし、それぞれの天体の動きもずっと簡略なものとして説明できるのです。すなわちこれが地動説なのですが、コペルニクスが「天体の回転について」を公表したのは1543年のことですから、誤った天動説が、千四百年以上にもわたって人々に教え継がれていたのです。

 1687年にニュートンが発表した「プリンキピア」は、地上の物体の運動から天上の惑星の軌道に至るまで、あらゆる自然現象を説明することができました。彼は、自ら発見した万有引力の法則に、落下運動に関するガリレオの力学、惑星運動に関するケプラーの法則や振り子運動に関するホイヘンスの研究などを総合して、見事な世界像を表現したのです。
 もともとプリンキピアはユークリッドの「原論」を意識して書かれています。体系の出発点となる公理に相当するのが、慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則で、ニュートンはこれらの基本三法則から、他の物理現象を演繹的に導き出す力学体系を構築しました。

 実際に、ニュートン力学は、驚くべき威力を備えていました。宇宙は、絶対時間と絶対空間という枠組みにおいて美しく厳密に定義され、数学的には、ニュートン自身の導いた微積分法によって極限まで計算可能になりました。
 そして、ニュートンの導いた自然法則は、当時の機器によるほとんどすべての観測で確認され、またその予測も正確であることが検証されました。

引用ここまで---------------------------------

今回はここまでにし、続きは次回に紹介することにいたします。

(つづく)

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6.先天の修行と神人合一の道 (2)

 こうした毎日を送ることを一言でいうなら、「捨てる修行」をする、ということになります。我欲や人欲を捨てることですね。霊能力を得たい、超能力を得たい、などという気持ちは一切抱かず、人が良くなり、世の中が良くなるためなら自分の命を捨てても構わない、といった気持ちで日常生活を精一杯生きていくこと、これです。

例えばジャンヌ・ダルクがあれだけの大きな仕事を成し得たのは、結局、神がかるに十分なほど無私無欲に徹し、捨て身の純粋さに徹したからに他なりません。

中山みき、出口ナオにしても同じで、自分のことよりも、家族のこと、社会のこと、国のことを優先して考えていたのです。その純粋な心に神様が感応して、様々な神通力を与えたのですね。

これが神力です。神力とは、いわば、神様に川上に引き上げていただき、川上から川下に下る中で身につける神通力と言えます。そして、常日頃から自分を捨てる努力を続けることを先天の修行というのです。

これに対して、難行苦行を実践し、霊能力や超能力を得ることを後天の修行と言います。

そして、この修行をする動機に、少しでも我利我欲が含まれていれば高級神霊は絶対に感応しません。感応するのは邪気邪霊だけなのです。我欲は純粋なものではないからです。

「今の自分の社会的地位は、常識人として人一倍努力して確立しよう。霊能力などは、欲しいと思わなくても自分の努力と誠が極まって、その結果として備わればよしとしよう」こうした生き方をするのが本当なのです。

先天の修行には、後天の修行のような長時間にわたる訓練はいりません。ただ自分の欲を捨てればいいのです。そして、捨てるということを別の言い方で言い直すと、素朴で素直に生きるということになります。これが神人合一の一厘でもあるのです。

(つづく)

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6.先天の修行と神人合一の道 (1)

 本当に除霊をするには神に対する信仰心と人々に対する強い愛念、我を取り去った明鏡止水の境地が必要だということです。同時に学問の研鑽も大切になりますよね。

 一つ、ぜひ皆さんに理解していただきたいことは、霊能力と神力とは、それぞれ異なる力なのだ、ということなのです。

 霊能力とは、霊界にいる存在によって得られる能力です。時には邪神界を横行する霊がそうした能力をもたらすこともあるのです。もう一方の神力とは、神様が直接動いて下さった結果、出現する能力のことです。

 神力は、実は、我力で獲得したり発揮したりできるものではないのです。それではどのようにして体得し表現するのかというと、「先天の修行」が鍵になるのです。神力とは、先天の修行によって会得するものなのです。

 先天の修行によるなら、修行らしい修行をしないで、たぐい稀な神通力を体得することができるのです。それは具体的にどうすればいいのでしょうか。結論から言いますと、純粋に人の道において真心を実践し誠を尽くすことに終始する、ということになるでしょう。神様の眼から見て、「神の社(やしろ)となるに足る人物だ。愛と誠をもって人々を救済してくれる人だなあ」とみなされるような、お眼鏡に適うだけの毎日を送ればいいのです。

(つづく)

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5.運命を改善するためには、自分が出す念を見直してみることが大切である (3)

 だからこそ、自分の一念を管理することが自分で悪霊を除霊することの第一歩だと言えるわけですね。

 しかし、人間の念とは環境と五感に大きく左右されてしまうものです。目の前に現れる人やものに自分の想念がいくらでも影響されることは、我々が日々体験している通りですね。だから、自分の念を良い方向へ導くためには、何よりもまず自分自身を素晴らしい環境に置くよう努力し、その努力を惜しまないことが肝腎です。そして、自分の中の良き念を誘い出してくれるような良き人や良き物を選んで、できるだけ自分の五感を善なるほうへと向かわせる努力が必要なのです。この努力によって「一念の管理」の基本が確立されるのです。

「一念の管理」の中心は、念の種類によって、それが悪霊を呼ぶものか善霊を呼ぶものかの区別があることを知ることが大切です。そして、その区別に基づいて、絶えず自分の念の中身を分類する癖をつけることが重要なのです。区別のための簡便な基準を示してみましょう。

 まず、善なるものは、「明るく、前向きで、積極的で、発展的で、協調的」です。ところが、悪しきものは、「暗く、退廃的で、消極的で、批判的で、猜疑する」なのです。この分類を瞬間に行うことができて、悪いものをすぐに切り捨て、善いものをすぐに取り込むことができるなら、「一念の管理」は十分にできていると言えるでしょう。

 霊という、目に見えなくてその実態を確認することが難しい存在を、念と置き換え、さらに進んで、主体的に「一念の管理」を行うことで、霊に支配される側から支配する側に立場を換えることができるのですね。

この後は、神人合一の道について少しだけ説明したいと思います。

(つづく)

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5.運命を改善するためには、自分が出す念を見直してみることが大切である (2)

 まず第一に大切なのは、少しでもいい土地に住むことです。

 第二に大切なことは、少しでもいい人間とつきあうことです。第三に少しでもいい自然の景色と気にふれることです。第四に少しでもいい神気にふれることです。第五に、少しでも人生を明るく前向きにする言霊の宿る、いい本を読むことです。第六に少しでも美意識を高める芸術にふれることです。第七に少しでもいい心と感覚を呼び起こす、色彩と雰囲気のある部屋や内装を選ぶことです。第八に少しでも明るく前向きですがすがしい感覚になれる服装を選ぶことです。第九に少しでも日あたりのいい家と部屋に住むことです。第十に少しでもいい念と感覚が出てくるよう、いい想いを湧かせる祈りを習慣とすることです。第十一に少しでもいい感覚を人に与えるような態度、言葉、礼を行い、相手がそう思う感覚を自分にはね返らせることです。

 こうして、自分と出会うもの、自分にいろいろな刺激をもたらす対象を自分から主体的に選別することで、自分の中により良い霊界を積み重ねていくことが可能となるのです。

 そしてまた、自分が抱く只今、只今の想い、すなわち自分の出す念によって、自分のところに引き寄せられてくるものが決まります。というのも、霊界とは、相応しいもの、等しいものが寄り集まる世界だからなんですね。

 だから、我々と共存している様々な善霊や悪霊、高級霊や低級霊のうち、「どのような霊とあなたが関わりを持つのか」は、別の言い方で言うなら、「あなたがどのような霊に憑依されるのか」は、あなたの念の抱き方にすべてがかかっていると言えるのです。あなたの抱く想念に相応しい霊が共鳴して寄ってくる、ということなのです。この法則は、この三次元世界における社会生活にもそのまま当てはまります。人は、自分と気が合う人と話し一緒に過ごすなら、楽しいと感じますね。なぜ楽しいと感じるのかというと、自分の持つ霊界と共鳴する部分が、相手の霊界の中にもあるからです。お互いの想念が相通じ合ってお互いに認め合えるから、楽しいと感じるのです。今、自分が出している念に相応しく、相手がやってくるわけです。今、自分が抱く想いに相応しく、自分の周囲ができあがっていくわけです。つまり、「只今」の一念こそが、善悪正邪、天国地獄の分水嶺となっているのです。

(つづく)

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5.運命を改善するためには、自分が出す念を見直してみることが大切である (1)

 私達は、日々の暮らしの中で様々な良いものや悪いものに出会い、そのたびにいろいろな刺激を受けていると言えます。

 人は、両親から施された躾や育ってきた環境から影響を受け、それぞれに自分の好き嫌いができあがっているものです。考えたり分析したりする前に、自分の内に存在する情念や好みから来る「ふとした感覚」を一人一人が抱えており、実は、この「ふとした感覚」に基づいて何事も選択しているのです。「人間の認識は、学問をしたり人の話など聞くことで概念を吸収してできあがる」とする考え方がありますが、自分がどういう基準に沿って様々な概念を取捨選択しているのかというと、その基準が実は自分の内にある「ふとした感覚」だというわけです。そして、この内なる「ふとした感覚」が結局は自分に影響する様々な概念や認識の取捨選択を左右することから、最終的に人生観までもが「ふとした感覚」によって決まってくるのです。

 それ故、ふとした感覚をより良いものにしていくなら、自分に影響をもたらす様々な要素をもまた、「より良いもの」にしていくことができるのです。絶えず積極的に良きふとした感覚を見出すように努めるなら、自分の内なる世界は明るく発展的なものとなり、自分自身のご本霊が発動しやすくなるはずです。

 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

(つづく)

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4.霊とは何か?除霊とは何か?(2)

 人は、死ねば霊界に行きます。そこで霊界人として新たなる生活を営むのです。死後の自分の意識の在り方について、正しく認識している霊が、一般に成仏霊と呼ばれる霊です。

 そして、霊界人として生きていくことについて、認識をより深いものにし、徹底した慈悲の心や現世を達観して精進努力するという、深い悟りの想いを抱くようになった霊のことを、菩薩の位に達した霊と呼びます。菩薩とは、仏道に励む釈迦の姿と同じき有り様のことをいうのです。

 さらに、菩薩の位に達した霊が、一層揺るぎない想念の持ち主となり、おのずから不動の霊格と悟りの位を持つに至れば、その霊は如来の位に達したと言えるのです。如来とは、ある程度の天地自然、法界(ほっかい)の真相を究め、霊界や現実解で衆生を救うことが可能な仏のことを言います。人を救うことが可能となるためには、最低限、自分の悟った状態(菩薩位)が変動することがあってはなりません。ですから、如来位にして、初めて人々の救済が正しくできるようになると言えるのです。

 善霊、悪霊、どちらも様々な形で人間世界に関与しています。そして、こうした霊達の善悪を決めるのは、その霊達が発する念の善し悪し次第だ、ということなのです。霊の位が高いとか低いというのも、その霊達が抱く念の種類が、文化的に高いものか低いものかによって決まるのです。尊い霊か否かはこのように定義でき、判断できることをぜひ覚えておいていただきたいと思います。

 抱いている念が一時的、刹那的な想いではなく、心底まで徹底した想いであるなら、おのずから本人の行動となって具体的に外に表現されるのが普通です。したがって、行動も、心底深い念の表れだと考えて良いでしょう。

 改心とは、心構えや想念がちょっと変化することを言うのではありません。心が本当に改まったなら、心が変わり、言葉が変わり、行いが変わるはずです。心とは、口と心と行いを含むところまで広がりをもっているものです。この広がりを、心の上部、中部、深部と言ってもよい。深いところに行くほどに、霊があり、魂があるのです。

 ワールドメイトでいうところの「救霊する」とは、実は、悪霊の抱く悪想念がおのずから改まり、霊界での生活が真に素晴らしいものになるよう、改心させることを言います。つまり、霊を改心させ、その霊がおのずから幸せな想いのみを抱くことになるよう導き、その結果、その霊を救済するわけです。悪しき想念を抱く霊が自分の間違いを自覚し、自分から正しい成仏霊となるよう導くのです。その結果、悪霊の存在は消えてしまいます。こうして救霊という営みが完成するのです。

 ですから、人は、日々自分を救霊することができますし、そのように心がけるべきなのです。そうすれば、自分の心が堕ちてしまうのを防ぐことができます。そしてまた、ワールドメイトの会員となって、悪霊を改心させる手順を正しく習得・体得すれば、他人に憑霊している悪霊をも救霊することができるにようになるのです。これが真の除霊なのです。

(つづく)

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4.霊とは何か?除霊とは何か? (1)

 霊とは肉体の内や外に存在すると考えられる精神的実体だと定義づけられています。人間とは肉体と霊とが一体となった存在であり、仮に霊が肉体から離れると、たとえ肉体が生命活動を行っていたにしろ、人間とは言わないのです。生物ではあるかもしれないが、それ以上の存在だとは言い難い、ということになります。そういうわけで、人間の人間たる所以(ゆえん)は霊にあると言っていいでしょう。

 人間として存在する所以とは何でしょうか。それは、想念を抱くことですね。念を抱くことが人間であることの証明になると言うことができるでしょう。しかし、想うという行為をなすのは人間だけではないようです。植物は植物なりに、動物は動物なりに、いろいろと意識があり、想うようですね。つまり、想念といっても、想念の中に、芸術観があり、学問観があり、信仰観があってこそ、初めて人間としての想念だと言えるようです。

 一言でいうなら、想いの中に文化があることが人間であることを証明する、ということでしょうか。

 この「文化」という高度な想いの部分こそが、実は神魂(しんこん)と言われるものであり、われわれ人間の中の神なる部分なのですね。人間の霊体の中に、神なる意識が存在しているわけです。

 それゆえ、芸術観もなく、学問観もなく、信仰観もない人間とは、一見見た目は同じ人間であるように見えますが、中身が少しも人間らしくない生き物、すなわち、人間の皮を被った獣であると言えるのではないでしょうか。ですから、こういう類の人間は、死後、必ず畜生道に落ちるのです。

 以上の内容を整理しますと、「人間の本質とは高級なる霊であり、人間であることを証明するのは、文化的な念を出すことができることだ」ということになります。

 ところで、霊と念とはある程度置き換えることができますよね。例えば、強い霊とは強い念を出すことができる霊であり、大いなる念で生きている人の霊体とは、大いなるものなのです。

 さて、この「念」とは、何かということを別の角度から言い直すなら、それは即ち「今、現在」の想いこそが念なのだ、ということですね。今、その人が出した想いこそがその人の今の念なのであって、したがって、今出した念こそが、その人が今置かれている霊界を表すものだと言えかえることができます。

 そして、念即ち霊だとするなら、つまり今現在の想いが霊の状態であると考えるなら、念の種類によって、霊を分類することも可能になりますね。例えば、たたり霊とは、「たたりをしてやるぞ」という念を抱いている霊だということになります。

(つづく)

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3.人は何のために生まれてきたのか

まず最初は、人生の本義(=根本となる価値や意味。)とは何か、という点に関して深見先生がおっしゃっていることを説明してみたいと思います。

深見先生は、「人生の本義とは、真・善・美を探究しながらこれを実践し御魂を向上させることである」と一貫しておっしゃっています。人はみな、御魂を向上させるために、肉体を持ってこの三次元の世界に生まれてきているのですね。

そして、霊能力にせよ、超能力にせよ、人生の本義を実現させるために役立てて、初めて本来の価値が認められると言えるわけです。学問の力や、人を導く力、会社を経営する能力や、外交能力、私達ひとりひとりが持っている様々な才能・能力も、すべて、人生の本義に帰結されて、初めてその意義が認められると言えるのです。

神様は、神界、霊界、現実界の三界を創造されました。そして、神様は人間という存在を通じて三次元世界を統率しておられます。高級神霊や主神の世界は、非常に繊細な波動の世界だということです。

 これに対して、三次元の現実界はどうでしょうか。先ほどのようなかすかで清涼な感覚の世界は、音楽や絵画などの芸術世界にみられるだけで、現実世界のほとんどの部分は、非常に波動の荒い物質的世界であると言えないでしょうか。そこでは、物質的、現実的な生活が人間によって営まれており、時に戦争、天災といったことも起きますよね。

 こうした荒々しい波動の物質世界を、高い次元の神々は直接統率できないのだそうです。そこで、より物質次元の近くに降りることができ、人間のために働くという存在が必要となってきます。それが龍、天狗、UFO、狐、蛇といった存在です。ヨーロッパ神界の天使もこれに類する存在なのですね。

 これらはみな、神と人との間を取り持つ中間役の存在であり、「眷属(けんぞく)」と呼ばれています。そして、こうした眷属には、おのおの役割と使命が与えられているのです。さらに言うと、その役割と使命に応じて格付けがあるんですね。

 ちなみに、物質次元に近いところから、蛇、狐、天狗、龍という階級ができているということです。

 これらの神々を信仰すれば、お陰をいただくことは確かにできます。ですが、実はそれだけではいけない、ということなんですね。

 というのは、最初に申し上げた通り、人生の本義とは「御魂を向上させること」にありますから、人間として正しい努力をして、正しく取り組んだだけ、成果が上がる、結果が得られる、というのが本来あるべき姿だということなのです。つまり、人間としての魂の修行、胎蔵界の仏様の如き自己向上の修行と、衆生を救わんとする金剛界の仏様の如き善徳高揚の修行、この両方が本当は必要なのです。

 進歩・向上・発展を忘れ、ただ無難に日々を送るだけの人生や、お陰を求める信仰にとらわれてばかりいては、結果として間違った人生になってしまうのです。それは、最終的には魔界に引き込まれてしまうことになってしまうのです。

人が、みずからが正しい努力をすることなく、結果だけ、お陰だけを求め続けていると、そうしたその人の内面に感応して、邪霊が憑依するということが往往にして起きるのです。この邪霊によって、魔界に引き込まれてしまうわけですね。
 
 人として生まれてきたからには、御魂を向上させるべく常に精進努力していかなければならない、これが天地の法則に基づいた、正しい人生観なのです。

(つづく)

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2.「教祖存命中の、神仕組の天啓宗教」

ワールドメイトとは「教祖存命中の、神仕組の天啓宗教」なのです。

ひらたく言いますと、「私達と同じ毎日を教祖が生きていて、遠い過去から綿々と続いてきた神仕組が実際に活き活きと降りている、すなわち天啓=神が知らしめる人智や人力をはるかに越えた事柄、が出されている宗教である」ということです。

従来の伝統宗教は、その重み、発言や行動の信頼性の根拠を、その伝統=歴史的なつみかさねに求めます。

では、ワールドメイトは何を信頼の拠り所とするのか?

それは、教祖深見東州先生の生き様に対してであり、その生き様を神々が愛でて、次々と降臨し、その結果神事や芸術作品に、教祖の歌唱や書や執筆活動等に、神なる息吹きが活き活きと充満している、その様子に対して拠り所を求めるのです。

つまり、深見東州先生が、生きた神を実際に行じていらっしゃるその有り様こそが、ワールドメイトの信頼性の拠り所なのです。

言い換えれば、生ける神々が次々と降臨するという事実こそがワールドメイトの信頼性の拠り所だとも言えます。

またこうも言えます。自分達会員一人一人が、深見先生に教えられた通りに、正しく順序立てて神仏に祈りを捧げたなら、その結果として活き活きと神々の脈動が実際に分かるような「息吹き」を実感できること、神仏の動いた結果としての「証」を実感できること、これらもまたワールドメイトの信頼性の拠り所です。

「ワールドメイトは、
 内修として、スの神より降ろされた
 『実在の神を掌握する』
 『神を行ずる』
 『神人合一の道を歩む』の
 三法を以て基本とし、
 会員各個の宗教的人格を磨かしめ、
 各々の内的向上を目指す。
 また外慈として、
 神人合一の道実践の五ヶ条であり、
 ミロクの世の定義でもある五ヶ条、
 すなわち『信仰心』『愛念』『秩序』
 『調和』『平和の心』が兼ね備わった
 ミロクの世実現の為に、
 政治・経済・学問・芸術・福祉、
 あらゆる分野に貢献し、
 公共に益する活動を行うことを旨とする。」

つまり、活き活きと生ける神々を実際に感じ、またそれだけではなく神々にお願いして動いていただいて、自分も他人も幸せとなり、社会に具体的に貢献できるという実感を持てる、こうした点にこそ、ワールドメイトがワールドメイトたる所以(ゆえん=理由、わけ、いわれ)があるのです。

次に、深見東州先生が日頃から何度もおっしゃっている事柄のうち、特に重要だと思われるものをご紹介いたします。

それは、「人は何のために生まれてきたのか」、「霊とは何か?除霊とは何か?」、「運命を改善するためには、自分が出す念を見直してみることが大切である」、「先天の修行と神人合一の道」、この四つについて、この後順に説明してみたいと思います。

(つづく)

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深見東州先生は、ワールドメイトの教祖です。つまり、リーダーですね。そして、ワールドメイトとは神道をその基本において活動している宗教法人です。そこで、深見東州先生とワールドメイトについて紹介させていただきたいと思います。

まず、ワールドメイトについて、ご紹介いたします。

1.ワールドメイトとは?

まずワールドメイトの在り方、ワールドメイトがどういう方針で運営されているのかをご紹介いたします。

ワールドメイトの3つのポリシー
「宗教団体としての、弱者救済の立場に立った、慈悲慈愛の実行」
「人道的見地に立った、会員や社会への対応」
「社会良識に基づく誠実な対応」

これが、ぜひ皆様に覚えておいていただきたい、ワールドメイトの運営方針ですね。

ワールドメイトはサービス業ではありません。ですから、会員も、サービスを受けるために会員でいるのではないのです。自分を救い、人を救い、神様の御用をお手伝いするために会員というご神縁が用意されているのです。しかし、あたかも他人が勝手に用意したかのように用意されているのではなく、自分でもそうした機縁があることを無意識のうちに知っていて、自ずから神なるものに導かれて会員となっているのです。

信仰とは、神様の御心を想い神様に喜んでいただこうと考え続けることです。自分が儲かるからという理由で神様のところへ通うのは、御利益信仰です。

信仰心とは、貫く精神のことであり、何事も決して途中では止めないという決意を行動で表すことです。神様のことが好きだからといって、信仰心があるとは限りません。物事を途中で投げ出すことなく長く続けている人、例えば、「書というものを30年追究し続けています」という人のほうがよほど信仰心があると言えます。

(つづく)

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先祖供養、寿符、お送り迎え符と、先祖達に向けて祈りを捧げる機会が今年もやってまいりました。

先祖に向けて祈りを捧げると言っても、実際にやってみたことがない方にしてみれば、「なんだか良くわからない」といった感じになりますよね。

そこで、今回は、両親が亡きわが子を供養したいと思って一生懸命祈った結果、神仏に祈りが届いて、その子の霊が救われた、という話をご紹介したいと思います。

その救われた子が今世、生まれ変わってきて、ワールドメイトの会員になって、そして「天命神通」を受けて、深見東州先生が魂の声を読み取って初めてわかった内容なのです。

※天命神通についてはこのブログの以前の記事で説明しているはずですので、分からないという方はそちらをご確認下さい。

それでは以下、天命神通の際の深見東州先生がある会員の方に向けてなさった解説をご覧下さい。まず、ある男性の「今世の天命についての解説」の部分です。



以下、深見東州先生の解説 ------------------------------

「両親はいたが里子に出されて、そこで折檻されて苛められて、十四歳で木に首を括って死にました。親元に帰りたかったのに…。こんな一生が続いても、何も生きていく値打ちが無いと、鎮守様に願かけて、百日目に死にました。」

「大山祗の神様が…死んで三日後に、里子に出した親が見に来て泣き崩れて、この子を手許に置いておけばよかったと。母親は泣き崩れて…母親は子供のために毎日、千日供養をして、五百日目に閻浮堤(えんぶだい)の冥府魔道の親神様に祈りが届いて、大山祗の神様が、直々に出てこられて、『お前の意志の弱さもはかなさも苦しさも分かるが、八割までは親の責任だ、獄界から救ってやろう』とおっしゃった。」

「六十五年の寿命があったのに自ら命を絶ったから、今世は、六十五年間はどんなことがあっても生きて、精進努力して、世のため人のために生きて、仏心堅固に努めねばならぬと、それで生まれてきた。」

以上、深見東州先生の解説終わり ---------------------------



ここまでが、この男性の「今世の天命と、なぜそのような天命を持つに至ったのか、その背景の説明(即ち、前世で起きた出来事についての説明)」にあたります。

実際に母親の祈りが届いて、その結果救われたのだということが分かります。

続いて、「天命を必ず成就するにはどうすればいいのか」という対策についての説明が続きます。



以下、さらに深見東州先生の解説が続く ------------------------

「このままでいくと六十五歳で、たとえ努力しても七十代で帰幽する。寿命が六十五歳だったところを天命と運命を差し換えて五年足された。七十歳。」

「しかし、この白山に来て、長寿を全うし、八十九十まで生きて、ご神業をして、神業第一として世のため人のため神様のために生きんとする発願を、御縁のある人のため神様のために生きんとする発願を、一日に三度、毎日三度、これを五年間一日も休まず続ければ、自らの命運を改めて、八十九十まで生きることができる。」

「これが神の愛であり慈悲であり自らの発願と菩提心であり、神と共に生きんとする人が報いられるところ。」

「今生は二つ。一つは、苛められようと折檻されようと、不遇の目に遭おうと、これを喜びとし感謝し、御魂磨きの糧とし脱皮し乗り越えていく糧とすること。二つ。良き御神業が八十九十まで、出来ますようにと発願して祈ること。」

「(実は)、役行者の弟子で、霊力は充分に磨いたが、神仏のために、布施行のために命を徹しきること、これがまだ充分出来ていなかったので今生これを全うしたい。幸不幸は一過性のもの、発願により神仏が動くことは永遠の理なり。永遠をつかみ取るべし。永遠が本当の神への誠であり、永遠が本当の愛の本質、常にそれを目指して進むべし。祈りの行が出来ても、思い切りが悪いと神仏は動かないから、今度からは、思い切りよく、よく考えて、思い切りよく、両様が出来るように。」

深見東州先生の解説はここで終わり -------------------------



ということなのですが、たったこれだけの解説の中にいかに多くのヒントが含まれているか、皆様、御理解いただけるでしょうか。ぜひ何度も読み返して、ご自身の毎日の御神業のヒントにしていただければと思います。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久

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暑いです。真夏ですね。本当に先祖の皆様の「重み」を実感しておりますが…豆木の潔斎も同時にありますので、年に一度の定例の「先祖に想いを馳せる時期」ですね。

先祖が私達の想念にどれだけ影響しているのかについて、深見東州先生がメルマガで説明して下さっているので、今回はそちらを紹介してみたいと思います。

聞いたことのある話をご紹介したいと思いますが、支部にお越しになれば詳しい説明をご覧いただくことができますので、皆様、ぜひお近くの支部まで足を延ばしていただければと思います。

どうやら、獄界の先祖霊が出てくると、胸が沈んで本当に奈落の底に落ち込んでいくような気分になるようです。これが生霊になると、胸が締めつけられたり、何かが刺さったような感じになって気持ちが落ち込む、こうなるようです(以下、深見東州先生のお話しが続きますが、説明の中には現在の医学的見地による判断とは食い違うものもあるかもしれません。ですので、以下の説明をお読みになっても、その説明ひとつだけでいろいろと即断せず、早計に結論を出そうとしないで、必ずお近くの病院や医者で受診してもらい、現実的な観点からの診断と治療法を仰ぐようにして下さい。)。

うつ病になるのもいろいろと原因があるようです。例えば、積極的に神仏にお祈りすることをせず怠った結果、御魂が沈滞してしまったという場合であっても、うつ病になるようです。また、首の頸椎(けいつい)が損傷し、気分が沈んでしまうことが原因の場合。あるいは、女性で30代後半以上の人、男性で40代半ば以上の人で起きるホルモンのアンバランスが原因の場合。これは成長ホルモンの分泌が低下することから来るようです。この成長ホルモンの分泌量が低下するのを乗り越えていくには、筋力を鍛え、運動することで成長ホルモンの分泌量を増加させるのが良いようです。多くの場合、運動不足がもたらす筋肉の退化が、成長ホルモンの分泌量低下の原因となるようです。また、冷たい飲み物・食べ物を摂りすぎることで低体温症の症状が現れ、これが原因となって免疫機能が低下し、やる気がなくなります。そして、この免疫機能の低下が腸内ウイルスや常在菌の暴走を招き、この腸内ウイルスや常在菌が脳に浸入して悪影響をもたらした場合もうつにつながります。

思い込みや妄想の結果、未来に対して不安や絶望を抱いている場合、また、志や夢や目標を持てず、毎日を締まり無く過ごしてしまって御魂の発動が無くなり、気が下がる場合、これらもうつにつながるということです。

社会経験の無い人が、強烈な上司や先輩からさんざんにこき下ろされてしまい、自信を喪失して引き籠もってしまい、御魂が帰ってしまったという場合もうつになるということです。新たな夢や未来の理想を丁寧に想い描いて、良き霊界を作り直すと御魂が帰ってくるようです。

悪方位や悪家相が原因で、気が過度に停滞している場合もうつにつながります。吉方位に引っ越す、吉相の家に住む、こうした対処法で元気になることが多いようです。

さらには、日光を浴びる量が不足することで自分の体の細胞やミトコンドリアが不活性になってうつを発病することもあるようです。夜寝て昼は外に出るという生活を送り、昼夜が逆転しないようにすることが大切です。

霊的な事柄がうつの原因になっている例としては、浮遊霊が憑霊している場合、動物霊や教団霊が憑依している場合、先祖の回忌供養がきちんとできていない場合、自殺した先祖が憑霊している場合、こうした例があるということです。

私個人の主観的な意見としては、この時期に、胸が沈むとか気持ちが浮かないというのであればやっぱり豆木、足がだるいというのであれば先祖供養、こういう感じではないかと思います。

(つづく)

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先祖供養の季節がやってきました。皆さんはもうお申し込みになりましたか?

私は、この季節になるといつもなんですが、どうにも体が重くなって本当に苦しく感じる時が出てくるので、毎年必ず申し込みをしています。

この季節が来たら、必ず先祖に言ってきかせるようにしている言葉がありますので、そちらを紹介してみたいと思います。もちろん、もっと上手になさっている方もいらっしゃることでしょうが、とりあえずということで。

「わが父方△△家のご先祖の皆様、△△家の直系ならびに傍系のご先祖の皆様、いつも私をお守りいただきまして本当にありがとうございます。また、わが母方●●家のご先祖の皆様、●●家の直系ならびに傍系のご先祖の皆様、いつも私をお守りいただきまして本当にありがとうございます。」

「まもなく先祖供養のお取り次ぎがございますが、恵みを下さるのは神様、仏様でございます。神様からの恵み、仏様からの恵みによって、ご先祖の皆様が救われるのです。つきましては皆様も、私達子孫と同じく、神様仏様にどうか感謝のお祈りを捧げて下さい。」

「そうした神様からの恵み、仏様からの恵みを取り次いで下さるのが深見東州先生です。お取り次ぎ当日には、お坊さんの格好をした深見東州先生が神様の功徳、仏様の功徳を取り次いで下さいます。皆様はどうか静かに、お取り次ぎの妨げにならないよう、供養を受けていただきますようお願いいたします。お取り次ぎの前も、最中も、皆様は話しかけたりくっついたりなさらず、静かに供養を受けていただきますように。そうでないと供養が始まらないし、深見先生の邪魔になってしまいますので。」

「供養はあくまで、直系ご先祖が主ですから、傍系ご先祖の皆さんは控えめにしていて下さい。しかし、傍系といってもご縁があって、家に尽くされた方もあって、身分があった方もあって、実力があった方もあったことでしょうから、供養はきちんといたしますので、控えめな形ではありつつも、しっかりと供養を受けて下さいますように。」

そして最後に

「最初に申し上げましたように、ご先祖の皆様に恵みを下さるのは神様仏様でございます。必ず供養をいたしますので、直系先祖の皆様も傍系先祖の皆様も、どうかお取り次ぎの当日まで霊璽(れいじ=先祖の霊達の一時的な拠り所)におかかりになってお待ち下さい。私達の肉体におかかりになると私達が苦しくなってしまいますので、どうか霊璽におかかり下さいますように」

このように申し上げます。

こうすると、「体がダルい」というのが改善されることが多いですよ。一度お試し下さい。

(つづく)

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日頃から、事細かに祈ること、できる限り具体的に祈ること、こうした祈り方を練習しておいて、神様や仏様に自分の考えをできるだけ事細かに説明した上でお願いする、といった習慣を確立しておくと、やはり証が具体的に出ることが多くなるような気がします。

事細かに具体的にしつこく何度も祈るというのは、なかなか手間と時間と労力と忍耐力と国語力が必要になってくることなんですね。その場で即興でお祈りの言葉をどんどん出していくというのが苦手な人は、紙に書いて祈ってみてもいいかと思いますが、目が開いていて自分の周囲の景色を冷静に見ているというのでは、実は深見東州先生がおっしゃっているように、自分の祈りの中に入っていくというか情感を盛り上げていくのにはなかなかうまく行かないんですね。目が開いている祈り方では集中し没入することがむずかしくなってくるのです。したがって、お祈りの際に発揮される力もまた、目を閉じて祈りに集中している場合よりは若干弱くなっているかもしれません。

しかしそうは言っても、やはり言葉足らずになるのでは困るのですね。言い忘れ・祈り忘れが起きるのはできる限り避けたいですね。

以前に人形の証であったと思いますが、教員をしている会員が、自分のクラスの子供達について丁寧に人形に書いてお祈りしたところ、自分のクラスのその子達はことごとく入学試験に合格して幸せにはなったけれども、隣のクラスの子供達がその分試験に失敗してしまって、全体として見た場合に、あまり成績が良くなっていなかった、といった証があったように思います(記憶違いがあったらすいません)。

この例では、祈り方を変えて、学校全体を範囲とした祈りに変え、また、「自分の担当するクラスの子供達が皆~」という尺度の祈りだったのが、その尺度も別の観点からの祈り方に変更したところ、全校の成績が向上してどの子も喜べる結果となったという話だったのではなかったでしょうか。

結局、自分がどういった観点から祈っているのか、ということと、どういう尺度でもって祈っているのか、といったことが結果を左右することが多いように思います。ですので、自分が何を祈りたいのか、優先順位の高い事柄は何か、逆に、どちらでもいい内容はどれか、こうした点を整理してからお祈りに入ると、うまく祈ることができるように思います。

問題点と自分の本音を整理しておくことが大切なのかもしれません。

(つづく)

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目標を決めて、目標を達成することだけが目的だと思ってしまうと、その目的に向かって進歩向上していく過程を楽しむ余裕ができません。

確かに目標はあったほうがいいのですが、「こうしなければならない」という世界になってそれを生きていくことになると、目標に到達した頃にはもう人生の残り時間があまり残されておらず、楽しむ時間もあまりないということになってしまいます。

実際には、若い頃にはその時にしか体験できない苦しみ・楽しみというものがあるわけです。そして、歳を取ったら、今度はそれはそれでその年齢に相応しい楽しみ方、その年齢でないと分からない喜びというものがあるわけです。

ですので、目標にしばられてまだ目標に達していないからダメなんだ、と考えるよりは、一生懸命精進努力して、一日一日が目標に至る道のりであって、そういう一日一日を刻々と楽しんで、できていないところは明日はできるような自分に成長していこうと、そう自分を励まして、毎日を喜びつつ過ごしていく、こうした在り方のほうが良いようです。そしてこの今日一日、今この時を楽しんで過ごそうという姿勢こそ、三昧の境地により近いものかもしれません。

目前の今この時今この時を、充実したものにし、喜びと生きがいを見出していく、こういう姿勢でいると、三昧の境地に近づくことができるようです。

今この時、今この時というのを楽しまないで、結果のみに心がしばられてしまうと、思った通りの結果にならなかった時、つまり自分の期待が裏切られた時にがっかりしてしまって、それで結局悲しみと恨みが残ってしまって自分を傷つけることになってしまうのです。

(つづく)

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「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。」(子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者、)という言葉がありまして、正しくは、

「子の曰わく、
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
というふうに読むということなんですね。

その意味はというと、
「先生がおっしゃった。
「道を志すことにおいて、ただ知っているというだけの人は、
それを好きな人には及ばない。
それを好きな人も、それを楽しむ人には及ばない」」
となる、ということなのです。

深見東州先生から以前聞いた時におっしゃったのは、「目標を立ててもその取り組みが義務感でやることに終始するのなら、おそらく長続きしないでしょう。長続きさせて、同時に結果も出していく、ということなら絶対に楽しむことが大切です」ということでした。そして、義務感とか面倒くさいとかしんどいとか疲れたといったマイナスの感情など完全に忘れきって、自分が精進努力していることに没入して、自分が何をやっているのかわからないくらいに没入して、それでなおかつ楽しい、楽しい、といった感覚にある時、これがどうやら三昧(ざんまい)の境地にあるということらしいですね。

この三昧の境地にすぐに没入できる、というふうになってくると、普通に手間暇や苦労が必要となるようなことでも人間がやってできることであれば、どんどん取り組んでいくことが可能になるようです。深見東州先生は、自分が若い時にした新聞配達をやっていた時に、この三昧の境地を実感したことがある、とおっしゃっていましたが、物事を成就する、成し遂げていくという時に、この三昧の境地というものと没入感というもの、こうした要素がとても大切になってくるように思います。

義務感で物事に取り組んでも、なかなかこの三昧の境地に至るのは難しいのではないでしょうか。しかし、取り組む対象が自分の好きな事柄であれば、より没入しやすいのではないでしょうか。ですから、もう何事か成し遂げようというのであれば、それを無理矢理好きになるしかないよね、という結論なのです。

逆に、どうしても好きになれない、というのであれば胃潰瘍になる前に諦めたほうがいいかもしれませんね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 守護霊

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毎日の生活の中で、内修と外慈、すなわち道を得て物事の真実を把握することと、人様によろこんでいただいて善徳を積み功を立てる、この二つをとにかく実践して成就していく、これが確実にできるようになってくると、毎日の御神業が充実したものになるようです。

守護霊さんに祈るの時には、まずひとつ、毎日必ず「今日も功(いさおし)を積むことができますように」と祈ります。少しでも人々のために役に立つことができて、何か人救いができますようにと祈る。そして次にもうひとつ、「今日もわからなかったところがわかるようになって進歩向上発展のある一日となりますように」と祈ります。具体的に「□□と○○についてわからないところがありますので、どうぞ教えていただけますように」と祈るのが良いかと思います。このように祈ると、必ず神様から(守護霊さんたちを通じて)お返事があるはずなのです。

これらを別の言い方で表すならば、

「願わくば上乗に至らしめたまえ」

「願わくば真諦を得さしめたまえ」

「願わくば功侯を積ましめたまえ」

「願わくば衆生を済度ならしめたまえ」

という言い方になるということです。

毎朝こうした言葉で祈りを捧げて、それから一日の生活・仕事にとりかかるのですね。

そして、深見東州先生がおっしゃるには、とにかく毎日、毎朝、神様に向かって疑問点を投げかけることが大切です、ということです。神様に質問を投げかければ投げかけるほど、悟る数も増えていくのだそうです。神様と交流して、どんどん疑問点を明確にして、それを質問していく、質問を投げかけていく、こうすることで、自分が今知らねばならないこと、悟らねばならないこと、気づかねばならないこと、こうしたことがはっきりして、どんどん悟ることができて、どんどん進歩していくことができる、こういうふうになっているのですね。

(つづく)

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tag : ワールドメイト 深見東州 半田晴久 守護霊

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深見東州先生がおっしゃるには、守護霊に祈る時には、はっきりと明確に具体的に言うことが大切になってくるということですね。そして自分と縁のある方たちだという場合が多いのですから、とにかくモロに希望・願望を言い募っても良いのではないかと思います。その願いの内容が利己的なものでない、自分中心のものでない、誰か他人を犠牲にするものでない、こうした条件に合っているなら、必ず願いを聞き届けてくれて、何か返ってくるものがあるのではないかと思います。

ですから守護霊さんたちに祈る時には本当に具体的に、はっきりと言葉に出して、セリフに出して、ぶつぶつと言っていくのが良いようです。

「私を守って下さっている多くの守護霊様。本日も神様の命を受けて、私をご守護いただき誠に有難うございます。今、私はここ、□□に来ておりますが、体調が悪く、気分も悪く、食欲も無く、気持ちも盛り上がらず、とてもつらい状態になっています。つきましては、この後打ち合わせをしなければならないので、まずは体力が回復して、無事仕事を最後までやり抜くことができますよう、どうかお守り下さい。どうかお願いいたします。そして、この後の打ち合わせはとても大切なものなので、この打ち合わせで必要なことはすべて話し合うことができ、重要なことをひとつも見落とすことなく確認して押さえることができ、少しでも我が社にとって有利な条件で契約を締結することができますように。けれども先方にも先方の事情と都合と条件と希望があるでしょうから、先方が、一方的に自分達が損をしたとか、だまされたといった悪い印象を持つこと無く、先方も先方で納得し、満足して、今後ともずっとつきあっていきたいという気持ちが衰えることなく、私どもと一緒にやっていってくれることができますように、お互いに好印象を抱きつつ会合を終えることができますように」

といったようなことを守護霊さんたちに向けて、事細かに、丁寧ではあっても親しみを込めて、言霊でどんどん出していくのが良いみたいですね。気持ちが切り替わって、体が切り替わって、元気になるまでくり返して祈っていくと、本当に守護霊がかかって物事がうまく運んでいくのだということみたいですね。

(つづく)

(つづく)

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ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

深見東州先生は、「人が生まれてきた目的は、一見いろいろとあるように見えても実は全員に共通している目的がある、それは御魂を向上させること、御魂の修業のために生まれてきているのです」、このようにおっしゃっています。

それでは、この観点から毎日をどのように送るのが良いのでしょうか。また、毎日どのように守護霊に祈るのが良いのでしょうか。

究極のところはどうなるかというと、「自分がその時何をしているにせよ、一日一日の一瞬一瞬が、自分の魂の向上に結びつく一瞬一瞬になっているのが理想」だということのようです。

そして、「御魂を向上させる・御魂の修業」ということをもっと具体的に言うなら、二種類の方法がある、ということになります。

それはすなわち、「どこまでも善なるものを信じながら、真理を追究して向上していく、つまり学び続けていく、道を極めていく」という陰の面、すなわち「内修」と、もうひとつ、「善徳を積んで功(いさおし)を立てる」という陽の面、すなわち「外慈」と、この二つです。御魂を向上させていくのには、この二種類しかありません。信念を持ってどこまでも真理を究めて向上していくというのと、善徳を積んで功を立てることによって向上していくというのの二つです。人間の御魂が向上するという時には、この二つの方法、陰と陽、道と慈、こうした二つになるわけです。

真理を究めていくと物事が分かってきて、やはり世の中の役に立つことがしたい、人々の幸せの役に立つことがしたい、このように考えが至って善徳を尽くしたいと考えるようになる。道が極まって慈に至ります。また、善徳を施そうとしていろいろと問題に突き当たった時に、本当の布施行ができるようになるには、もっと英知が必要だ、もっと真理に通じていないといけない、このように反省し、もっと勉強しないといけないと考えるようになります。慈が極まると道を志すようになります。したがって道と慈、つまり内修と外慈は不即不離の関係にあり、どちらが欠けても残った他方も成り立たなくなるわけです。

そうすると、守護霊さんに実際にどう祈るのが良いのでしょうか。それは、まずひとつ、毎日必ず「今日も功(いさおし)を積むことができますように」と祈ります。少しでも人々のために役に立つことができて、何か人救いができますようにと祈るわけですね。そして次にもうひとつ、「今日もわからなかったところがわかるようになって進歩向上発展のある一日となりますように」と祈るわけです。具体的に「□□と○○についてわからないところがありますので、どうぞ教えていただけますように」と祈るのでも良いかと思います。このように祈ると、必ず神様から(守護霊さんたちを通じて)お返事があるということです。

こうした陰陽両面の祈りを毎日繰り返し祈って積み上げていく、こうするとどんどん神様と交流できて、毎日の生活が実り豊かなものとなり、善徳の積み方も進歩早さも人の2倍、3倍の早さで進んでいけるようになるということです。すばらしいですね。

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前世の不徳を今生で補強するとはどういうことなのか、この点について考えてみたいと思います。

人徳・地徳・天徳のうち、人徳については、内修と言い換えても大きな間違いではないでしょう。すなわち、世の中の物事の受け止め方、物の見方、物の学び方、考えの進め方、こうしたことを学び体得して、世の中の真実について学んで自分を向上させていく、本当の教養を身につけていく、正しい信仰心について学んでいく、こうしたことが人徳となるでしょう。自分が明るい人物となるよう努め、より良き自分の在り方をめざして毎日過ごしていくということになるでしょう。これは一朝一夕で積み上げられるものではありませんね。一生をかけて、継続的に積み上げていくものでありましょう。

また、地徳とは前世に積んだ徳分ですから、今となってはこの地徳を増やそうとしてもどうしようもありません。しかし、例えば、今すぐにでも世の中の役に立つこと、人の喜びにつながることをしようと発願して体施を始めるなら、すぐに徳積みを始めることができるのも事実です。そして、この徳積みを今生死ぬまで続けてやめることがなければ、来世はいっそう充実した人生となることでしょう。今おこなったことは、来世の地徳となるわけです。

ところで、これらの人徳と地徳を今世の自分の人生において活用することを可能にするのが信仰心であり、その信仰心によってもたらされる天徳なのです。神仏に帰依して正しい信仰を生涯貫いた上で、徳積みを実践し、お稽古事や勉強も同時に積み重ねていく、こうした生き方をすることで、人徳・地徳・天徳の三つが融合し、自分自身と自分の周囲の人達のどちらをも幸せにすることができる最善の生き方をすることが可能となるのです。

なぜなら、信仰心の篤い人物が人知れず神仏に願掛けをして、日頃から人徳を磨きまた地徳を積もうという生き方をすれば、自ずから神仏がその生き様をご照覧になって、本人の想いと行いに応えて神徳・仏徳をあらわして下さるはずだからです。具体的にその恵みは何かと言えば、それはより良き人、より良き事柄、より良き物との出会いということになります。なかなか具体的にならないというのであれば、より良き人と出会う準備をしている、より良き事柄と出会う準備をしている、より良き物と出会う準備をしている、このように考えればいいのではないでしょうか。

今世での幸せは、やはり正しい神仏に帰依していること、そして自分が一体何をもって自分の幸せと考えるのかということ、こうした点にかかっていると言えるでしょう。

(つづく)

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ワールドメイトは、深見東州先生をリーダーとする宗教法人です。また、深見東州先生は半田晴久のお名前で様々な創作活動・福祉活動をしておられます。

「才能や運気を開花させるには、努力だけではだめだ」ということを受けて、それでは「才能が社会的に開花するために必要なものは何か?」と考えた時に、「それは徳分である」ということがわかりました。そして、その徳分には三種類のものがある。その三つとは、人徳、地徳、天徳ですね。

人徳とは、「自分自身を修養して高めている人格面」のこと。「その人物の人間的色あいや魅力」をさしています。

地徳とは、「前世において自分がどれほど徳を積んできたか」という過去の徳分のこと。この地徳の有る無しが、社会で才能が認められて開花・結実するかどうかに関わってきます。また、俗に言う「ツイている人とツイていない人との違い」となります。

天徳とは、神の道に生きようとする人、根源的な信仰力を持っている人に備わるものです。神仏に深く帰依しているとか、天の正しき道を貫いて生きてきたとか、あるいは神様仏様に対して功徳を積み、信仰力を磨き錬磨し、一人でも人を救済してきた人は、天の徳が授けられているのです。また、天徳を授かっている人は、悟りや叡知、パッとひらめく発想、才能、霊的な素質を持っています。

それでは、この三つの徳が均等に備わっていないとどうなるのか、その点を引き続き「絶対運」から見てみたいと思います。

引用ここから---------

 たとえば、天の徳があっても地の徳がないとすれば、あなたの望みは世の中で結実・成就しない。「発想・ヒラメキは抜群だけど、どうも現実に役立たないんだよなあ」と言われるのがオチである。

 地の徳があって天の徳がなかったらどうなるか。

「あいつ、何をやっても結構うまくいくけど、スゴイ発想で時代をリードするといった、叡知の香りみたいなものとはまったく無縁なんだよな。才能があっても、あれが限度だぜ」

 人徳がないと、

「たしかに彼は成功しているかもしれないけど、あんなに狡猾で悪辣だといい死に方しないね。見ていてごらん。そのうちポックリ……」

 こんな声が聞こえてきそうだ。

~(中略)~ 徳には三つあり、それぞれの働きがおわかりいただけただろう。人・地・天の三つの徳が調和し揃って、初めてより完璧になるのである。

~(中略)~ 自分にはどの徳が足りないか。まずその弱いところを発見して、そこを補強することである。

 というと、前世の不徳を今生で補強することができるのかと疑問が出よう。勿論できるのである。

引用ここまで----------

ということで、三つのうちのいずれかの徳分が足りないなら、それを補強すれば良いのだ、という話に当然なるわけですね。それではどのようにして自分に足りない徳を補強するのでしょうか。

(つづく)

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「才能や運気を開花させるには、努力だけではだめだ」ということなのです。そして「才能が社会的に開花するために必要なのは徳分である」ということなんですね。そこで、その徳分について記されている部分を「絶対運」から見ていきたいと思います。

引用ここから---------

 いちがいに徳というが、これは三つに分けられる。

 まず、人徳がある。

「いやあ、まことに申しわけありません、私の不徳のいたすところでございます」

 と深く頭を下げる、あるいは下げるふりをする政治家やビジネスマンの姿をよく見る。不徳とは人徳に欠けることをいうが、一方、こういう表現もよく聞く。

「Xさんは、たしかに人徳はあるんですが、なかなか世の中では報われませんね。能力もけっしてライバルのYさんに劣らないんですが、どうしてもYさんの方が目立ちます」

 これも日常でよく耳にする会話である。

 人徳があって才能があっても、ライバルのYさんにつねに負けているXさん--、そんな人はわれわれの身近にもいるはずである。

 この人徳というものは、自分自身を修養して高めている人格面をいう。その人物の人間的色あい、魅力をさしているのだ。

 しかし、人徳なんてものは、宗教的あるいは修身教科書的な評価でしかなく、実生活に何の役にも立たないと言う人もいる。Xさんのように、人徳はあっても恵まれない人がいるのが、なによりの証拠というわけだ。

 しかし、真実はそうではない。

 人徳があっても恵まれなかったりツキがないのは、もうひとつの徳が足りないからである。

 それが第二の徳、地徳(ちとく)である。

 この地の徳というのは、前世において自分がどれほど徳を積んできたてかという過去の徳分のことである。

 ~(中略)~

 この地徳の有無が、社会で才能が認められて開花・結実するかどうかに関わってくるし、また、ツイている人とツイていない人との違いとなるのだ。

 三つめが、天徳である。

 この天の徳は、神の道に生きようとする人間、根源的な信仰力を持っている人間に備わるものなのである。神仏に深く帰依しているとか、天の正しき道を貫いて生きてきたとか、あるいは神様仏様に対して功徳を積み、信仰力を磨き錬磨し、一人でも人を救済してきた人は、天の徳が授けられているのである。

 この天の徳を持つ人は、悟りとか叡知やパッとひらめく発想、才能、霊的な素質を有するとともに、危急存亡の折にも助けを得られるのだ。

 世で活躍する一流の人物というのは、たいていこうした、人・地・天の徳を兼ね備えているのである。

引用ここまで----------

ということで、徳分が足りなければ、どんなに努力をしても社会的に認められて成果があがるということにはなりにくいようです。したがって自分自身を磨く努力をしながら、その上で、十年後、二十年後を見すえて今黙々と徳を積んでいくことしていくという姿勢が大切になってくるのでしょう。

(つづく)

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守護霊という存在がどういうものなのか、その点を理解しておかないと、お願いしてみたりねだってみたりしようにも現実味が出てきません。ほとんどの人の場合、自分の親の親のそのまた親のその親の親の親…が守護霊さんです、ということになっているようです。血がつながっている先祖であることが多いようですね。深見東州先生の「大創運」からお借りしてみたいと思います。

引用ここから---------

 ~(略)~、 あなたの才能や運気は、すべてあなたが前世で行った修業や、努力の積み重ねの結果である。そして、それに合った家運の家に生まれてきているはずなのだ。

 そして、これらの才能や運気を開花させるには、あなた自身が、心の目を開き、己の素質のありどころを知ることが大切だ。

 そうすれば、あなたが成功を収める条件の半分は、ここにすでに整ったことになる。

 あとは、みずからの才能を磨くための努力をすればいいと言いたいところだが、実はそれだけでは不足である。

~(中略)~、「前世から受け継いで才能や運気を開花させるには、努力だけではだめである」ということを思い返してほしい。

 努力はしなければならないが、~(略)~ 徳性の涵養が必要となるのである。徳には天徳、地徳、人徳とあるが、授かるのに時間がかかる。

 そこで、誠で祈れば即授かる徳があるので紹介しよう。それが神徳である。厳密に言えば、天徳の一部であり、神徳もさらに厳密に言えば、神霊の徳と霊徳とに分類される。だからこれらを活用せず、自分の力だけを信じて生きれば、むなしい結果しか得られない。

 努力をしつつも、己の力の至らなさを認める謙虚さ、クールさ、そして出世の意欲。つまり古いタイプと新しいタイプのサラリーマンの考え方から、いい部分だけをピックアップしてみればどうなるのか。必ず神霊界から、その人の誠に応じて援軍がさし向けられる。この援軍が守護霊であり、その霊徳なのである。

引用ここまで----------

努力そのものは怠ることなく継続する、しかし同時に、自力だけで物事を成就完遂(じょうじゅかんすい)できるわけではないこともきちんとわきまえて、謙虚に他力に頼ることもしている。

こうした、自力と他力を十時に組んで物事を前進させていこうという姿勢によって、実り多い結果を得ることができるようです。物事が成就するのを見て、そうした結果が自力のみによるものではないのだと自覚して、だからこそ他力に感謝するのを決して忘れない、こういう人であればいつまでも他力からの守護を大いに授かり続けることができるわけですね。

(つづく)

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「守護霊は必要に応じて、人生の転機に応じて、どんどん交替する」のですが、守護霊が交替することで、現実世界にもその結果が出てくることになります。再び「神社で奇跡の開運」からご紹介いたします。

引用ここから---------

 守護霊が替われば、性格も変わる。体形もまた変わる。より高い守護霊にきていただくと、急に環境が変わったりもする。そして、守護に値する人間になってほしいから、それだけ守護霊の要求レベルも高くなり、指導のあり方も、必然的に以前よりは厳しくなる。

 たとえば急に両親が細かいことまでチェックしたり、先生が文句を言うようになったり、友達までが細々と忠告するようになったりする。本人は急にピリッとして、顔が精悍になったり、眼光に輝きを増したりする。それで周囲の人々も、何かが変わったな、ということが確認できる場合が多いのだ。環境の変化や志の転換などによって、自然に行われる守護霊の交替も、よくこのとことをふまえていれば、いつ頃なされたのか、自分でもだいたいはわかるはずである。

引用ここまで----------

守護霊からのメッセージは、やはり自分の両親、学校の先生、そして自分の友人、こうした「身近な人間関係」を通して伝えられることが多いようですね。したがって、身近にいる人達からの忠告や苦言を避けてばかりいるのでは、せっかく自分の守護霊が何か大切なことを伝えようと頑張ってくれているのに、そのメッセージを無視してしまうことになります。それは、守護霊が交替してより次元の高い生き方、より中身の濃い生き方をさせるべく導こうとしているのを拒否することに他なりません。それゆえ、周囲の人達からもたらされる前向きな助言を無視・拒絶ばかりしている人の場合、結局高級な守護霊はその人を導くことができないからということで、去ってしまうことになります。まさに「いつまでもフラフラしている人には高級霊は前面に出てきて導いてくれない」(前掲書)ということになるのです。

しかし、何でもかんでも人に相談して、いつまでも優柔不断なままで決断・実行することができず、良し悪しの判断がつけられないまま、何もかも宙ぶらりんのままになってしまう人も中にはいるかもしれません。頑固で人の言葉を聞く耳をもたないのもいけませんが、人の言葉に流されすぎて主体性を失ってしまってもまたいけません。

決断をしていくためには、やはり「より難しいことに挑戦していく、いっそう前向きに取り組んでいく、さらに前向きに工夫していく」という選択をすることが鍵となるようです。なぜなら、そういう生き方をすることこそが守護霊が加勢してくれる生き方であるからです。前向きな決断をし、また前向きな発願をすることで、善き守護を受けることができるのです。

(つづく)

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神人合一と言いますが、最初に目標とすべきはやっぱり守護霊と一体となることのようです。守護霊は、多くの場合、自分と血のつながった先祖の中で、生前の行いが徳が高く道を修めたような霊で、神様から許可を与えられた霊がなっているようです。自分の守護霊とツーカーの間柄になれば、「なんとなくそうしたほうがいいような気がした」、「どうしてもそうしたくなったので途中で引き返した」といった種類のヒラメキが増えるような気もします。

それではどういう仕組みでこういったヒラメキがやってくることになるのでしょうか。

まず大事なのは、「守護霊は必要に応じて、人生の転機に応じて、どんどん交替する」という事実を理解することです。「神社で奇跡の開運」からご紹介してみたいと思います。

引用ここから---------

 守護霊は背後霊の中から出てくるといったが、正確には背後にいるたくさんの霊の中から、いい霊達が守護霊団を結成する。そのチーフをいわゆる守護霊と呼んでいるわけだ。

 チーフはその人のニーズに応じて、神様の意に沿った人事によって決定される。その神が守護神というわけである。まず小学生の頃は体力作りが大切だから、武術をきわめたような人の霊を守護につける。次に、中、高校生で勉強しなければならないときには、人生というものの理解力や咀嚼力(そしゃくりょく=文章やことばの意味を考えて理解する能力)を養うために、学者などの霊に守護霊の役を担当させる。

引用ここまで----------

その人の守護霊が替わると、その人自身の性格も変わるし体形も変化するのだそうです。ですから、自分で自分のことを思い出してみて、自分の性格が急に変わったり、自分の行動が突然内向的な姿勢から積極的に自己表現するように変化した時など、そういった大きな変化があった時に守護霊が交替していることが多いようですね。

(つづく)

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だまされて玉串を出した場合はどうなるのか、この点についても「神霊界」に説明がありますので、さらに続きをお借りしてみたいと思います。

引用ここから---------

 過去にどんな悪どい宗教団体や霊能者にだまされて、何百万、何千万のお金を出したことがあっても、そのときの気持ちが、「団体のためにした。霊能者先生にした」のであれば、ほとんどが己れの欲心からしたのであるから、ある程度、自分にも責任があったのである。

 ところが、そのときに神仏にさせていただく、神仏のために、是非、自分なりに精いっぱいさせていただきたいという純粋な気持ちでしたのならば、それは誠であり、神霊界では、黄金まばゆい天徳となっているのである。

 そのことは、守護神も守護霊もよくご存じのことであり、一時苦しくても、必ずや何らかのかたちで、その霊たちがその分返して下さるのである。だから、献金した後で、その団体がインチキであり、悪どいものであり、霊能者先生が大悪人であっても、決して悔やむことはないのである。守護神、守護霊および主神は、全てお見通しである。

 むしろ、その後そのことがわかって、「空しい、くやしい」と自分が感じたとき、自らの信仰が本当の神様や神霊世界に対するものではなく、組織や人を対象にした信仰であったという、浅はかさと至らなさを自覚し、反省すべきでありましょう。

引用ここまで----------

玉串を納める時の自分の腹の中がどうだったのか。どういう動機で自分がその玉串を納めたのか。こうした点が玉串の是非を決めるのですね。

要は「お蔭信仰」で納めた玉串は、ほとんどの場合、間違った納め方になってしまうということでありましょう。ですから、どういう考え方で信仰をするのか、結局はこの点にかかっているわけですね。

「何の努力や苦労もないまま、何も努力しないままで、1万円納めたものが10万円になって返ってくる」といった話はお蔭信仰そのものです。「ここにお参りするだけで何でも全部うまくいくらしいよ」という話はお蔭信仰そのものなのです。そういう話を信じて、自分の損得を計算して納得したあとで玉串を納めてもお蔭信仰でしかないから、だからあとになって裏切られたと感じてしまうのですね。

「神様の御用の役に立つならそれだけで十分だ」、「この物施と自分の誠にふさわしく徳が積めて、自分のカルマが解消していただけるなら、それで十分ありがたいことだ」といった姿勢で納めてこそ、玉串が5倍、10倍に輝く納め方なのではないでしょうか。そして、そういう姿勢で神様に向かった時にこそ、真実の神徳によって報われることになるのです。

(つづく)

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